パレスチナ側が平和を求めていると思っている人たちよ、目を覚ませ!
パレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)の最高指導者、ハレド・メシャール(Khaled Meshaal)氏は21日、在住するシリアの首都ダマスカス(Damascus)で記者会見し、ハマスは1967年の第3次中東戦争の境界線内にパレスチナ国家を建設することを受け入れる用意があるとしたが、イスラエルの生存権については認めないと言明した。
パレスチナ側が平和を求めていると思っている人たちよ、目を覚ませ!
パレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)の最高指導者、ハレド・メシャール(Khaled Meshaal)氏は21日、在住するシリアの首都ダマスカス(Damascus)で記者会見し、ハマスは1967年の第3次中東戦争の境界線内にパレスチナ国家を建設することを受け入れる用意があるとしたが、イスラエルの生存権については認めないと言明した。

昨日私はディスカバリーチャンネルで「エイリアンプラネット」という番組を見ていました。ある科学者(無神論者だったと思います)が出てきて、「私たちは生命が一連のランダムで偶然の出来事によるものだと理解しなければなりません。生命は大切なのでできる限り守る努力をしなければなりません。」それを言って環境保全活動のためのアピールをしました。
私はそれを聞いて不思議に思ったことがあります。生命が偶然のできごとでしたらどうして守らなければならないものでしょうか。大切なものにはそれを大切としている感覚のある存在が不可欠です。創造主がいなければ私たちの命を大切としているのは誰でしょうか。どうして大切だと言えるのでしょうか。私たちにとっては大切かもしれませんが、創造主がいなければ私たちの存在も偶然でしょう。無意味でしょう。創造主がいなければ、誰または何に対して命を守る義務があるのでしょうか。私はそれを理解できません。
空の墓は見落としてはなりません。イエスの復活に関する大切な証拠の一つです(もっとも大切な証拠かもしれません)。しかし、私にとって一番説得力のある証拠は弟子たちの証です。私の信仰は殺されてもイエスが唯一の神であるということを否定しないほど強いことを祈ります。歴史の中でイエスのために死んだ人数は数えきれません。そして、こんにちもイエスのために人々が殺されています。
そのような信仰はすごいですがそれほど珍しいものではありません。あらゆる宗教のたくさんの信者は真実だと信じていることのために死をもいとわないのです。しかし、嘘だとわかっていてもどのくらいの人は殺されても否定しないのでしょうか。私はそのような人が一人もいないと思います。しかし、イエスが復活していなければ、イエスの12人の弟子の内の10人は自分たちが嘘だと知っていたことのために死をもいとわなかったのです。(一人は老衰で死に、もう一人はイエスを裏切って自殺をしました。)
一人ではありません。10人です。イエスが十字架で死んだ後自分たちの前に物理的な体で現れたという嘘のために死んだということになります。一人なら精神病ということで片づけてしまうのかもしれませんが、10人です。いいえ、このイエスの弟子たちは自分たちの目で復活したイエスを見たと本当に信じていました。そして殺されてもそれを否定しませんでした。また、これは暗殺ではなく拷問によるものです。
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日本では「一神教者は暴力的だが多神教者は寛容だ」という考えが多いようです。実は今日もそのように言われました。これは大間違いです。仏教徒やヒンドゥー教徒による暴力は珍しくありません。先日も次ようなニュースがありました。
宗教暴動で26人死傷=ヒンズー教徒が教会焼き打ち-インド
インドのPTI通信によると、同国東部のオリッサ州中部カンダマル地区で24日以降、ヒンズー教至上主義団体のデモ隊がキリスト教会や州政府閣僚の自宅などを焼き打ちする大規模な暴動が相次ぎ発生した。25日に地区の4つの町に夜間外出禁止令が敷かれたが、家屋への放火などが続き、26日までに1人が死亡、25人が負傷した。
ヒンズー教聖職者の原理主義組織「世界ヒンズー協会」(VHP)の指導者が何者かに襲撃されたのが発端で、VHPが抗議デモを組織したところ、一部が暴徒化した。教会12カ所のほか、キリスト教組織運営の孤児院も破壊行為に遭ったもようだ。
あっちゃんも指摘しています。
日本でも中国でも歴史を見れば一目瞭然ではないか、自然破壊は多神教の世界にはなかったのか、戦争はなかったのか、差別はなかったのか、確かに多くの日本人にとっては耳障りのよい(説)であろう。しかし少しでも客観的に物事を見れば「一神教だから、多神教だから」という問題ではないことがわかるのではないか。
日本にいると「日本はアメリカの言いなりだ」という声をよく聞きます。もううんざりです。これはまったくの嘘です。国連では日本は58パーセントの場合アメリカの決議に反対の投票をします。それでも日本がアメリカの言いなりだと言えるのでしょうか。国と国の間には犠牲的な友好が存在しません。同盟と言ってもそれはそれぞれの国の益となっている限りです。フランスもアメリカの同盟国ですが、イラク戦争に強く反対しました。道徳的な考えに基づいてフランスはそうしたのでしょうか。いいえ、違います。フランスもドイツもロシアもイラクと不法取引をしていたわけです。その戦争は自分たちの取引を台無しにすることになるから反対したのです。戦争が始まってからアメリカがすぐにイラクでフランスの不法取引についての記録を見つけました。その後フランスからの批判の声が和解の声に変わりました。アメリカがそれを指摘しないことの引き換えにフランスが戦争反対の声を静かにしました。フランスがアメリカの敵になったわけではありません。それぞれの間に利害の対立ができただけです。日本も犠牲を払ってまでアメリカを支持するわけがありません。
地球温暖化について人騒がせをする人たちは地球温暖化を疑問視する本当の科学者がいないと主張します。これは不正直です。なぜかというと、疑問視されるのは地球温暖化ではなく、人間がその第一の原因であること、そして地球温暖化が必ず悪いものであるという考え方です。ハッドソン研究所の分析によると、500人以上の科学者は人間が地球温暖化を起こしているという人騒がせを論破する証拠を出しています。
この最新の分析がハッドソン研究所の上級研究員であるデニス・エイヴェリー氏によって公開されました。彼によると、地球温暖化についての人騒がせの一部を反論した500人の科学者の内、300人以上が前回の氷河時代以来、1500年間の中程度の自然な気候サイクルが現在と同じような地球温暖化12回以上起こしている、そしてそれらの温暖化が太陽の放射と関連しているという証拠を見つけました。
「このデータと科学者のリストは1850年以来地球の気温上昇の主な原因が人間であるという意見の一致があるという最近の主張に反論する」と彼が言います。
「2000年間の歴史の記録から暖候期は人間にとって良いものだということが分かります。より大きな嵐、季節はずれの霜、広範囲に及ぶ飢餓、疫病などをもたらしたのは過酷で不安定の暗黒時代と小氷河期です。」
また、他の研究者は海面が有意に上昇しておらず、嵐と干ばつが比較的少なく軽くなりつつあると判断しています。そして寒さで死ぬ人数が暑さで死ぬ人数より倍ですので人間の死亡率も少なくなります。更に、別の研究によれば、サンゴ、木、鳥、哺乳類やチョウが刻々と変化する気候にうまく適応していると今回の分析から分かります。
昨日蚊に不思議に思っていることを思い出させられました。それはなぜ人間が薬を発見するのだろうかということです。ヒドロコルチゾンは蚊に刺されたことによる痒みをほぼ瞬間的に止めるのです。なぜ蚊に刺されたら痒みが出るということは理解できます。そしてヒドロコルチゾンがどのように痒みを止めるかも理解できます。理解できないのはなぜヒドロコルチゾンが存在するのだろうかということです。進化論では人間が薬を発見することをどうやって説明するのでしょうか。なぜ効く薬が存在するのでしょうか。頭が痛い時はアセトアミノフェンを飲めば痛みが消えるのはなぜでしょうか。薬が偶然に存在していると言われても納得できません。なぜ薬って効くのでしょうか。この質問は少し哲学っぽくて科学の領域外かもしれませんが、私は薬が創造主からの恵みだと思っています。人間の罪によって死と苦しみがこの世に入ったのですが、創造主が哀れみを持ってその苦しみを少しでも軽減させるものを下さったと思います。
創世記6:2-4の「神の子ら」、「人の娘たち」そしてその間で生まれた「ネフィリム」は誰だったのでしょうか。
神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
私はこの「神の子ら」が堕落した天使(あるいは堕落した天使に取り付かれた人間)で、ネフィリムが天使と人間との間で生まれた雑種の生き物だという風に教わりました。しかし、私は聖書が堕落した天使を「神の子ら」と呼ぶのだろうかといつも疑問に思っていました。堕落した天使は「神の子ら」と呼ばれる資格を失ったはずです。堕落した人間はそうですから。ヨハネ1:12に次のように書いてあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」神の子どもとされる特権をもらったのはイエスを受け入れた人々のみです。
そしてこの解釈にはもう一つ大きな問題があります。天使は霊の存在です。人間の形を取って現れることがありますが、それでも実際の肉の体を持っていないはずです。この堕落した天使たちが悪い人間を取り付いた可能性がありますが、その場合でも自分たちの性質を人間の子孫に遺伝子的に伝えることはありません。そうするとネフィリムが普通の人間だったということになります。
私は「神の子ら」が信仰の道を歩んでいたアダムの子孫(アダムとエバにはセツ以外にも息子と娘がいたのでセツの子孫だったと限らない)のことで、「人の娘」が悪の道を歩んでいたアダムの子孫(おそらくカインの子孫)のことだと思います。そしてネフィリムがその間に生まれた子供のことになります。巨人だったからといって超自然的な力を持ったということにはなりません。ネフィリムという言葉は「巨人」ではなく「威張るもの」とか「暴君」という意味だという説もあります。どちらにしても背が高かったからといって超自然の力を持っていたと考える必要はないと思います。
旧約聖書では「神の子ら」が天使を指しているという議論は説得力に乏しいと思います。ヨブ記1:6を見ると、この言葉はサタンに対して使われていないことが分かります。神の子どもとされる特権を持っている従順な天使たちに使われています(ヨブ記38:7)。従順な天使が神の計画を邪魔しようとして人間と結婚することはありえませんので創世記6章の「神の子ら」が従順な天使たちに対して使われていないことが分かります。そうすると、ここでは「神の子ら」は天使たちのことではないということになります。
ある人たちは「それでは、神はセツの子孫がカインの子孫と結婚するのを禁止しなかったのにどうして大洪水を送ったか」と聞きます。 それは信仰の道を歩んでいたものが悪の道を歩んでいたものと結婚したことで悪の道を歩む子孫を残し、その結果として「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ようになったからです(創世記6:5)。
キリスト教の一つの根本的な教義は聖書の神が三位一体の存在であることです。つまり、神は父なる神と、子なる神と、聖霊の三つを持つ実体であるということです。しかし、多くのクリスチャンはこの教義の示唆を見落としているように思います。イエスが神であれば、モーセに律法を与えたのはイエスです。創世記9:6で殺人犯に死刑という命令をしたのもイエスでした。そして、古代イスラエル人に戦争をするように命令したのもイエスです。新約聖書にはイエスが「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だと書いてあります。
あるクリスチャンの人たちには旧約聖書を無視する傾向があります。分かりにくいとか時には恥ずかしいと思っているようです。しかし、事実は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言った同じイエスが「死罪の判決を受けた殺害者の生命と引き換えに贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず死刑に処せられなければならない」と命令したのです。(民数記35:31)
混乱する必要はありません。聖書を研究すると、旧約の神が報復的で執念深いお方で、新約の神が愛情に満ちた寛容なお方だということを学びません。実にイエスは聖書のどんな人物よりも地獄について多く語りました。そして「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と言ったのはヤハウェです(レビ記19:18)。山上の垂訓は政府へ与えられた規定ではなく、清いこころを持つために個人に与えられた生活信条です。ちなみにイエス自身が山上の垂訓でこの区別をしました。イエスはマタイ5:25-26に次のように言いました。「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」 つまり、旧約聖書は政府を中心にして書かれており、新約聖書は個人を中心にして書かれています。新約で政府を取り上げる時は旧約と一致していますし、旧約で個人を取り上げる時は新約と一致しています。
創造主の性格が変わったというわけではありません。政府は未だに犯罪者に罰を与えなければなりませんし、個人は未だに自分に対して罪を犯した人を許さなければなりません。旧約聖書を恥ずかしく思うクリスチャンはさらにびっくりするかもしれませんがイエスは何度も旧約聖書に登場しています。これは神学者の間では「キリスト顕現(christophanies)」と呼ばれています。例えば、創世記16:6-16には次のようなことが書かれています。
アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。(わたしを顧みられる神)」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
この「主の使い」はヤハウェとは別の方であるように語っていますが、一人称でも語っています。そしてハガルも13節でこの方を「わたしを顧みられる神」と読んでいます。他の人も主の使いと話して同じ結論に達しています(創世記22:11-18、28:12-22、31:11-13、出エジプト記3:2-5、民数記22:22-35、士師記6:11-23、13:17-22、第一列王記19:5-7)。この「主の使い」はイエスが誕生してから出てこないこともあり、多くの神学者によってこの「主の使い」がイエスであると認められています。ヨハネ1:18には次のように書かれています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」父なる神を見た者はいないので旧約聖書で「神を見た」と言われているときは「イエスを見た」ということです。
ある人たちは「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」と言います。十分の一をささげれば財産をも守ってくださると主張します。イエス様も弟子たちも貧乏で、殺されたことを指摘すると、その人たちは「殉教は一番の恵みだ」と言います。これは面白い答えですが、論点がずれています。
神様の祝福はかならずしも金的なものとは限りません。私は殉教が祝福だと思いません。栄光かもしれませんが、祝福ではありません。殉教そのものが祝福ではなく、天国で祝福が待っているということです。それにしても私たちはお金を求めて、あるいは期待して人生を過ごすべきではありません。1テモテ 6:8 には「衣食があれば、それで満足すべきです。」と書いてあります。神様は物質的な富を与えてくださるのかもしれませんが、そうなさらない場合は私たちは持っているもので満足し、自分の信仰がなぜ物質的な富につながらないかを嘆いてはいけません。
ペテロは足の不自由な男に次のように述べました「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)ペテロは金持ちではなかったことが分かります。「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」という考えは1テモテ6:2-10と17-21でパウロによって否定されます。
信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
・・・この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
ヘブル 13:5 に「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。」と書いてあります。 私たちは物質的な富を期待するべきではないことがあきらかです。
私は長年、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」というイエスの言葉に対する誤っている説明を信じていました。ある人たちは昔エルサレムに「針の穴」という小さい門があったと言います。この門を通るためにらくだから荷物を下ろさなければならなかったと言います。ですから、金持ちは神の国に入ることは無理ではないが難しいという意味の話だとその人たちが言います。しかし、問題があります。その名前の門が存在したという歴史的な証拠がありません。そして、イエスの言葉の意味が言い逃れしようとしても明らかです。最後まで読めば、イエスは次のように述べています。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 イエスを通らなければ金持ちであっても貧乏であっても神の国に入ることはできません。
それでは、マラキ3:10に「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と書いてあるのにどうしてクリスチャンは物質的な富を期待できないのでしょうか。まず、先ほど指摘しましたように神様からの祝福は物質的な富であると限りません。そしてそれより、この箇所はクリスチャンではなくイスラエルへの約束です。 11~12節を読めば分かります。「『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・・ すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」また、イスラエル人個人への約束ではなく、国民全体にへの約束です。