十分の一をささげれば神様は財産をも守ってくださる?

ある人たちは「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」と言います。十分の一をささげれば財産をも守ってくださると主張します。イエス様も弟子たちも貧乏で、殺されたことを指摘すると、その人たちは「殉教は一番の恵みだ」と言います。これは面白い答えですが、論点がずれています。

神様の祝福はかならずしも金的なものとは限りません。私は殉教が祝福だと思いません。栄光かもしれませんが、祝福ではありません。殉教そのものが祝福ではなく、天国で祝福が待っているということです。それにしても私たちはお金を求めて、あるいは期待して人生を過ごすべきではありません。1テモテ 6:8 には「衣食があれば、それで満足すべきです。」と書いてあります。神様は物質的な富を与えてくださるのかもしれませんが、そうなさらない場合は私たちは持っているもので満足し、自分の信仰がなぜ物質的な富につながらないかを嘆いてはいけません。

ペテロは足の不自由な男に次のように述べました「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)ペテロは金持ちではなかったことが分かります。「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」という考えは1テモテ6:2-10と17-21でパウロによって否定されます。

信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

・・・この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。

ヘブル 13:5 に「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。」と書いてあります。 私たちは物質的な富を期待するべきではないことがあきらかです。

私は長年、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」というイエスの言葉に対する誤っている説明を信じていました。ある人たちは昔エルサレムに「針の穴」という小さい門があったと言います。この門を通るためにらくだから荷物を下ろさなければならなかったと言います。ですから、金持ちは神の国に入ることは無理ではないが難しいという意味の話だとその人たちが言います。しかし、問題があります。その名前の門が存在したという歴史的な証拠がありません。そして、イエスの言葉の意味が言い逃れしようとしても明らかです。最後まで読めば、イエスは次のように述べています。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 イエスを通らなければ金持ちであっても貧乏であっても神の国に入ることはできません。

それでは、マラキ3:10に「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と書いてあるのにどうしてクリスチャンは物質的な富を期待できないのでしょうか。まず、先ほど指摘しましたように神様からの祝福は物質的な富であると限りません。そしてそれより、この箇所はクリスチャンではなくイスラエルへの約束です。 11~12節を読めば分かります。「『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・・ すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」また、イスラエル人個人への約束ではなく、国民全体にへの約束です。


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