イエス=ヤハウェ

キリスト教の一つの根本的な教義は聖書の神が三位一体の存在であることです。つまり、神は父なる神と、子なる神と、聖霊の三つを持つ実体であるということです。しかし、多くのクリスチャンはこの教義の示唆を見落としているように思います。イエスが神であれば、モーセに律法を与えたのはイエスです。創世記9:6で殺人犯に死刑という命令をしたのもイエスでした。そして、古代イスラエル人に戦争をするように命令したのもイエスです。新約聖書にはイエスが「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だと書いてあります。

あるクリスチャンの人たちには旧約聖書を無視する傾向があります。分かりにくいとか時には恥ずかしいと思っているようです。しかし、事実は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言った同じイエスが「死罪の判決を受けた殺害者の生命と引き換えに贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず死刑に処せられなければならない」と命令したのです。(民数記35:31)

混乱する必要はありません。聖書を研究すると、旧約の神が報復的で執念深いお方で、新約の神が愛情に満ちた寛容なお方だということを学びません。実にイエスは聖書のどんな人物よりも地獄について多く語りました。そして「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と言ったのはヤハウェです(レビ記19:18)。山上の垂訓は政府へ与えられた規定ではなく、清いこころを持つために個人に与えられた生活信条です。ちなみにイエス自身が山上の垂訓でこの区別をしました。イエスはマタイ5:25-26に次のように言いました。「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」 つまり、旧約聖書は政府を中心にして書かれており、新約聖書は個人を中心にして書かれています。新約で政府を取り上げる時は旧約と一致していますし、旧約で個人を取り上げる時は新約と一致しています。

創造主の性格が変わったというわけではありません。政府は未だに犯罪者に罰を与えなければなりませんし、個人は未だに自分に対して罪を犯した人を許さなければなりません。旧約聖書を恥ずかしく思うクリスチャンはさらにびっくりするかもしれませんがイエスは何度も旧約聖書に登場しています。これは神学者の間では「キリスト顕現(christophanies)」と呼ばれています。例えば、創世記16:6-16には次のようなことが書かれています。

アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。(わたしを顧みられる神)」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

この「主の使い」はヤハウェとは別の方であるように語っていますが、一人称でも語っています。そしてハガルも13節でこの方を「わたしを顧みられる神」と読んでいます。他の人も主の使いと話して同じ結論に達しています(創世記22:11-18、28:12-22、31:11-13、出エジプト記3:2-5、民数記22:22-35、士師記6:11-23、13:17-22、第一列王記19:5-7)。この「主の使い」はイエスが誕生してから出てこないこともあり、多くの神学者によってこの「主の使い」がイエスであると認められています。ヨハネ1:18には次のように書かれています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」父なる神を見た者はいないので旧約聖書で「神を見た」と言われているときは「イエスを見た」ということです。

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