日本にいると「日本はアメリカの言いなりだ」という声をよく聞きます。もううんざりです。これはまったくの嘘です。国連では日本は58パーセントの場合アメリカの決議に反対の投票をします。それでも日本がアメリカの言いなりだと言えるのでしょうか。国と国の間には犠牲的な友好が存在しません。同盟と言ってもそれはそれぞれの国の益となっている限りです。フランスもアメリカの同盟国ですが、イラク戦争に強く反対しました。道徳的な考えに基づいてフランスはそうしたのでしょうか。いいえ、違います。フランスもドイツもロシアもイラクと不法取引をしていたわけです。その戦争は自分たちの取引を台無しにすることになるから反対したのです。戦争が始まってからアメリカがすぐにイラクでフランスの不法取引についての記録を見つけました。その後フランスからの批判の声が修復の声に変わりました。アメリカがそれを指摘しないことの引き換えにフランスが戦争反対の声を静かにしました。フランスがアメリカの敵になったわけではありません。それぞれの間に利害の対立ができただけです。日本も犠牲を払ってまでアメリカを支持するわけがありません。
地球温暖化の「危機」を疑問視する500人の科学者
地球温暖化について人騒がせをする人たちは地球温暖化を疑問視する本当の科学者がいないと主張します。これは不正直です。なぜかというと、疑問視されるのは地球温暖化ではなく、人間がその第一の原因であること、そして地球温暖化が必ず悪いものであるという考え方です。ハッドソン研究所の分析によると、500人以上の科学者は人間が地球温暖化を起こしているという人騒がせを論破する証拠を出しています。
この最新の分析がハッドソン研究所の上級研究員であるデニス・エイヴェリー氏によって公開されました。彼によると、地球温暖化についての人騒がせの一部を反論した500人の科学者の内、300人以上が前回の氷河時代以来、1500年間の中程度の自然な気候サイクルが現在と同じような地球温暖化12回以上起こしている、そしてそれらの温暖化が太陽の放射と関連しているという証拠を見つけました。
「このデータと科学者のリストは1850年以来地球の気温上昇の主な原因が人間であるという意見の一致があるという最近の主張に反論する」と彼が言います。
「2000年間の歴史の記録から暖候期は人間にとって良いものだということが分かります。より大きな嵐、季節はずれの霜、広範囲に及ぶ飢餓、疫病などをもたらしたのは過酷で不安定の暗黒時代と小氷河期です。」
また、他の研究者は海面が有意に上昇しておらず、嵐と干ばつが比較的少なく軽くなりつつあると判断しています。そして寒さで死ぬ人数が暑さで死ぬ人数より倍ですので人間の死亡率も少なくなります。更に、別の研究によれば、サンゴ、木、鳥、哺乳類やチョウが刻々と変化する気候にうまく適応していると今回の分析から分かります。
蚊に刺された
昨日蚊に不思議に思っていることを思い出させられました。それはなぜ人間が薬を発見するのだろうかということです。ヒドロコルチゾンは蚊に刺されたことによる痒みをほぼ瞬間的に止めるのです。なぜ蚊に刺されたら痒みが出るということは理解できます。そしてヒドロコルチゾンがどのように痒みを止めるかも理解できます。理解できないのはなぜヒドロコルチゾンが存在するのだろうかということです。進化論では人間が薬を発見することをどうやって説明するのでしょうか。なぜ効く薬が存在するのでしょうか。頭が痛い時はアセトアミノフェンを飲めば痛みが消えるのはなぜでしょうか。薬が偶然に存在していると言われても納得できません。なぜ薬って効くのでしょうか。この質問は少し哲学っぽくて科学の領域外かもしれませんが、私は薬が創造主からの恵みだと思っています。人間の罪によって死と苦しみがこの世に入ったのですが、創造主が哀れみを持ってその苦しみを少しでも軽減させるものを下さったと思います。
神の子らとネフィリムは誰だったのでしょうか
創世記6:2-4の「神の子ら」、「人の娘たち」そしてその間で生まれた「ネフィリム」は誰だったのでしょうか。
神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
私はこの「神の子ら」が堕落した天使(あるいは堕落した天使に取り付かれた人間)で、ネフィリムが天使と人間との間で生まれた雑種の生き物だという風に教わりました。しかし、私は聖書が堕落した天使を「神の子ら」と呼ぶのだろうかといつも疑問に思っていました。堕落した天使は「神の子ら」と呼ばれる資格を失ったはずです。堕落した人間はそうですから。ヨハネ1:12に次のように書いてあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
そしてこの解釈にはもう一つ大きな問題があります。天使は霊の存在です。人間の形を取って現れることがありますが、それでも実際の肉の体を持っていないはずです。この堕落した天使たちが悪い人間を取り付いた可能性がありますが、その場合でも自分たちの性質を人間の子孫に遺伝子的に伝えることはありません。そうするとネフィリムが普通の人間だったということになります。
私は「神の子ら」が信仰の道を歩んでいたアダムの子孫(アダムとエバにはセツ以外にも息子と娘がいたのでセツの子孫だったと限らない)のことで、「人の娘」が悪の道を歩んでいたアダムの子孫(おそらくカインの子孫)のことだと思います。そしてネフィリムがその間に生まれた子供のことになります。巨人だったからといって超自然的な力を持ったということにはなりません。ネフィリムという言葉は「巨人」ではなく「威張るもの」とか「暴君」という意味だという説もあります。どちらにしても背が高いからといって誰かが超自然の力を持っていると考える必要はないと思います。
旧約聖書では「神の子ら」が天使を指しているという議論は説得力に乏しいと思います。ヨブ記1:6を見ると、この言葉はサタンに対して使われていないことが分かります。神の子どもとされる特権を持っている従順な天使たちに使われています(ヨブ記38:7)。従順な天使が人間と結婚することで神の計画を邪魔することはありませんので創世記6章の「神の子ら」が従順な天使たちに対して使われていないことが分かります。そうすると、ここでは「神の子ら」は天使たちのことではないということになります。
ある人たちは「それでは、神はセツの子孫がカインの子孫と結婚するのを禁止しなかったのにどうして大洪水を送ったか」と聞きます。 それは信仰の道を歩んでいたものが悪の道を歩んでいたものと結婚したことで悪の道を歩む子孫を残し、その結果として「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」ようになったからです(創世記6:5)。
イエス=ヤハウェ
キリスト教の一つの根本的な教義は聖書の神が三位一体の存在であることです。つまり、神は父なる神と、子なる神と、聖霊の三つを持つ実体であるということです。しかし、多くのクリスチャンはこの教義の示唆を見落としているように思います。イエスが神であれば、モーセに律法を与えたのはイエスです。創世記9:6で殺人犯に死刑という命令をしたのもイエスでした。そして、古代イスラエル人に戦争をするように命令したのもイエスです。新約聖書にはイエスが「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」だと書いてあります。
あるクリスチャンの人たちには旧約聖書を無視する傾向があります。分かりにくいとか時には恥ずかしいと思っているようです。しかし、事実は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と言った同じイエスが「死罪の判決を受けた殺害者の生命と引き換えに贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず死刑に処せられなければならない」と命令したのです。(民数記35:31)
混乱する必要はありません。聖書を研究すると、旧約の神が報復的で執念深いお方で、新約の神が愛情に満ちた寛容なお方だということを学びません。実にイエスは聖書のどんな人物よりも地獄について多く語りました。そして「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と言ったのはヤハウェです(レビ記19:18)。山上の垂訓は政府へ与えられた規定ではなく、清いこころを持つために個人に与えられた生活信条です。ちなみにイエス自身が山上の垂訓でこの区別をしました。イエスはマタイ5:25-26に次のように言いました。「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」 つまり、旧約聖書は政府を中心にして書かれており、新約聖書は個人を中心にして書かれています。新約で政府を取り上げる時は旧約と一致していますし、旧約で個人を取り上げる時は新約と一致しています。
創造主の性格が変わったというわけではありません。政府は未だに犯罪者に罰を与えなければなりませんし、個人は未だに自分に対して罪を犯した人を許さなければなりません。旧約聖書を恥ずかしく思うクリスチャンはさらにびっくりするかもしれませんがイエスは何度も旧約聖書に登場しています。これは神学者の間では「キリスト顕現(christophanies)」と呼ばれています。例えば、創世記16:6-16には次のようなことが書かれています。
アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。(わたしを顧みられる神)」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
この「主の使い」はヤハウェとは別の方であるように語っていますが、一人称でも語っています。そしてハガルも13節でこの方を「わたしを顧みられる神」と読んでいます。他の人も主の使いと話して同じ結論に達しています(創世記22:11-18、28:12-22、31:11-13、出エジプト記3:2-5、民数記22:22-35、士師記6:11-23、13:17-22、第一列王記19:5-7)。この「主の使い」はイエスが誕生してから出てこないこともあり、多くの神学者によってこの「主の使い」がイエスであると認められています。ヨハネ1:18には次のように書かれています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」父なる神を見た者はいないので旧約聖書で「神を見た」と言われているときは「イエスを見た」ということです。
十分の一をささげれば神様は財産をも守ってくださる?
ある人たちは「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」と言います。十分の一をささげれば財産をも守ってくださると主張します。イエス様も弟子たちも貧乏で、殺されたことを指摘すると、その人たちは「殉教は一番の恵みだ」と言います。これは面白い答えですが、論点がずれています。
神様の祝福はかならずしも金的なものとは限りません。私は殉教が祝福だと思いません。栄光かもしれませんが、祝福ではありません。殉教そのものが祝福ではなく、天国で祝福が待っているということです。それにしても私たちはお金を求めて、あるいは期待して人生を過ごすべきではありません。1テモテ 6:8 には「衣食があれば、それで満足すべきです。」と書いてあります。神様は物質的な富を与えてくださるのかもしれませんが、そうなさらない場合は私たちは持っているもので満足し、自分の信仰がなぜ物質的な富につながらないかを嘆いてはいけません。
ペテロは足の不自由な男に次のように述べました「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)ペテロは金持ちではなかったことが分かります。「十分の一をささげれば、神様は仕事を守ってくださり、その人が祝福される」という考えは1テモテ6:2-10と17-21でパウロによって否定されます。
信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
・・・この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
ヘブル 13:5 に「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。」と書いてあります。 私たちは物質的な富を期待するべきではないことがあきらかです。
私は長年、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」というイエスの言葉に対する誤っている説明を信じていました。ある人たちは昔エルサレムに「針の穴」という小さい門があったと言います。この門を通るためにらくだから荷物を下ろさなければならなかったと言います。ですから、金持ちは神の国に入ることは無理ではないが難しいという意味の話だとその人たちが言います。しかし、問題があります。その名前の門が存在したという歴史的な証拠がありません。そして、イエスの言葉の意味が言い逃れしようとしても明らかです。最後まで読めば、イエスは次のように述べています。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 イエスを通らなければ金持ちであっても貧乏であっても神の国に入ることはできません。
それでは、マラキ3:10に「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」と書いてあるのにどうしてクリスチャンは物質的な富を期待できないのでしょうか。まず、先ほど指摘しましたように神様からの祝福は物質的な富であると限りません。そしてそれより、この箇所はクリスチャンではなくイスラエルへの約束です。 11~12節を読めば分かります。「『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・・ すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。』と万軍の主は仰せられる。」また、イスラエル人個人への約束ではなく、国民全体にへの約束です。
臨死体験について
日曜日のメッセージはラザロと金持ちの話でした。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』(ルカ16:19-30)
今回のゲストスピーカーはこの箇所に関していくつかいい指摘をしました。ついでに彼は臨死体験の話をちらっとしました。私は臨死体験に対して疑問を感じます。
臨死体験が脳にある化学反応によるもの、あるいは幻覚だという研究者がいますが、私もそうではないかと思います。臨死体験をした方々は死後の世界から戻ってきてると思いません。これらの方々は死を宣言されたかもしれませんが、本当に魂が体から離れたのでしょうか。私はそう思いません。上記の聖書の箇所から、死んでから戻ることができないということを学びます。金持ちはどうしても自分の家族に警告をしたかったのですが、できませんでした。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とヘブル9章27節に書かれています。
蘇生ができなくなった時点で魂が体から離れると私は思います。戻ってくることもできないし、魂がただ宙に浮いている状態にもならないので臨死体験は死後の世界について調べるためにほとんど役立たないと思います。「運がよく死を免れる」ことはありません。死んだらどうなるか調べるには、この間のゲストスピーカーが言ったように、 死と陰府の鍵を持っている方(黙示録1:18)に聞かなければなりません。イエスは死に対するすべての権威を持っているため、死という題に関する権威筋です。
人間による地球温暖化説はばかげた話だと科学的気候学の父が主張する
先日、科学的気候学の父は「地球温暖化は人間に起因する」という話はばかげた話だと言いました。日本のメディアを観察しているとまずびっくりするのは全てのニュース番組が同じことしか伝えないということです。日本では「人間が地球温暖化を起こしている」という話が事実のように伝えられていますが、他の国々ではまだ異議の声も報道されます。
科学的気候学の父であるリード・ブライソン氏は(人間による)地球温暖化説がばかげた話だと主張する。
UW-Madisonの名誉教授でもある同氏は科学的コンセンサスに反対し、地球温暖化の懐疑論者だと言われている。しかし、彼は地球温暖化自体を否定しているわけではなく、人間がその原因だという考えを疑問にしているだけである。
「地球は間違いなく温暖化している」と彼はインタービューで言う。「地球は小氷河期を脱しているからだ。」
「人間とその排出される二酸化炭素が(地球温暖化の)原因であるという確かな証拠はない。この300年間、我々は小氷河期を脱してきた。この300年間は二酸化炭素をそれほど出していないが温暖化は長期にわたる現象である。」
「小氷河期は火山活動によって起こった。それは弱まりはじめたので現在は暖かくなってきたのである。」
「人間は空気を汚染しており、大気に二酸化炭素を放出しているがその効果が極めて小さい。」
「例えば象が突撃してきているのに象の頭にはえが乗っていることばかりを心配することと同じようなものだ。強調が完全に置き違えている。よい証拠がないので(人間による地球温暖化説は)科学とは言えない。」
・・・では、地球温暖化が優先課題でなければなぜ心配している科学者がこんなにいるのでしょうか。
「なぜ心配していない科学者がこんなにいるのでしょうか。」とブライソンが質問で答える。
「(この大騒ぎで)大金を稼げるのだ」と彼が続く。「著名な科学者になりたければ、多くの大学院生を育たなければならないし、多くの助成金が必要だ。そして、『地球温暖化?もちろん、二酸化炭素が原因だ!』と言わなければ助成金をもらうことができない。」
米大統領選-俳優のトンプソン元上院議員出馬へ
この間Sekai Nippo にトンプソン元上院議員の米大統領選出馬についての記事がありました。とてもよくリサーチした記事だと思いますので米大統領選に興味がある方にはお勧めです。この記事は「トンプソン氏はすぐに上位に食い込むだろうが、一躍トップとはいかない」という研究員を引用していますが、前にも言いましたがトンプソンは出馬すれば次の大統領になると思います。



