ここがおもしろいよ、日本

カテゴリー: 社会

elevator

よく見かけます。エレベータに乗るために必死で走っている人。

面白いです。先日すごいスピードで走っている60代のおばあちゃんを駅で見ました。痩せている方ではありませんでした。何でそんなに早く走っているんだろうと思ったら、ちょうどエレベータがきていてそれに乗りたかったようです。そんなに元気なら階段でいいのではないでしょうか。逆にそんなになまけものなら次のエレベータを待てばいいのではないでしょうか。それを見ていつも笑っています。

常に卵の側に立つ?

カテゴリー: 政治

私は作家の村上春樹さんのことを知りません。今日はじめて彼の名前を聞きました。テレビのニュースで、彼はイスラエルで行なった授賞式へ出席し、イスラエルを批判している場面を見ました。耳を疑いました。彼は次のように言いました。「わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。」その後、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と言いました。

はぁ?「何言ってんだ、この人?」と思いました。パレスチナ側が毎日ロケットをイスラエルに向かって発射し、一般市民を殺そうとしています。それでも「卵」の側に立つって?毎日ロケットが近くに落ちてきて必死で逃げなければならない状況はどうしてイスラエルが黙って耐えなければならないのでしょうか。それが「生きている」と言えるのでしょうか。イスラエルの政府はなんとしてもそのロケットをとめる義務があります。

そもそもイスラエルが「壁」でパレスチナが「卵」という理解は間違っています。この紛争はイスラエル対パレスチナではなく、イスラエル対全アラブ世界です。実際のところ、イスラエルが「卵」でアラブ世界が「壁」です。

パレスチナ問題の解決は簡単です。パレスチナ側がテロをやめれば、イスラエルは自己防衛をしなくても済むようになります。暴力はそれで終わりです。イスラエルはいわれのない攻撃をしていません。また、パレスチナ側と違って、一般市民を標的にしていません。

イスラエルは現在パレスチナより軍事力があります。だからといってテロを受けても報復するなというのでしょうか。よし!イスラエルがすべての報復をやめたとします。テロが続き、イランやシリアとの代理戦争によってある日イスラエル側よりパレスチナ側の方が強くなりました。この時点でイスラエル側に立ちますか。

不思議です。どうして不埒なテロ行為を行っているパレスチナ側を弱いからといって支持するのかは理解できません。

ブラ・ハラ

カテゴリー: 社会

僕は日本でよく血液型を聞かれます。しかし、僕は怠け者で、いまだに分からないと答えるしかありません。お母さんはたぶん知っていると思いますし、病院へ行くときはいつも聞くのを忘れます。

多くの日本人は血液型で性格が決まると信じているようです。ある日、テレビである番組を見ていたら、ある学校で子供たちが血液型によってグループに分かれて観察されました。大体の場合は皆同じ血液型の子供たちと同じ行動をしていました。しかし、その番組では反対の結果が出た実験を紹介しませんでした。それもたくさんあるので、その番組がプロパガンダだったとしか思えません。

信州大学助教授である菊地 聡氏は次のように言っています(英語のページから引用していますのでこれとまったく同じ言葉ではなかった可能性があります)。「血液型は血液中のたんぱく質によって決まり、性格とはまったく関係ありません。(血液型によって性格が決まるという説は)偽物科学に過ぎません。この考えは他人のことを人間として理解しようとしないで血液型で人を判断することを促すものであり、人種差別のようなものです。」

実にそうです。この考えは1930年代に日本の軍国主義政府がより優れた軍人を作り出すためにナチスの人種差別主義者から輸入したものであることを多くの日本人は知らないようです。数年後その考えが廃棄され、人気が次第になくなっていきました。しかし、1970年代に医学に経験のない能見正比古氏によって「血液型人間学」がまた大衆に広められました。

概して言えば血液型で大騒ぎしている人を見て面白く思います。実はいつも病院で聞くのを「忘れる」理由の一つは自分の血液型を知らないと言った後の人の顔を見るのが楽しいということです。

しかし、 この記事 が指摘しているようにスポーツでのポジションや仕事が血液型によって決め付けられることがあり、笑い事ではない場合もあります。ブラ・ハラは本当に人種差別のようなものです。

イエスのことばに権威があった

人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。(ルカ 4:32)

イエスのことばにどうして権威があったのでしょうか。昨日副牧師は次ように説明しました。ある人がスピーチを書いたとします。演説するときはその人のことばに権威があります。なぜなら、その人がスピーチを書いたからです。自分のことばです。他の人がそれを読みあげても本人ほどそのことばに力がありません。イエスは旧約聖書の作者ですのでそれを読んだときイエスのことばに権威がありました。

神はパロの心をかたくなにしたのか?

簡単に答えるとはい、神はパロの心をかたくなにしました。しかし、質問の「心をかたくなにした」とはどういう意味かによって答えは「いいえ」に変わります。神が行った業はパロの心を無関心から敵意に変えたかという意味でしたら、そのとおりです。しかし、神がパロの心と意志に働きパロが悔い改めないようにしたかという意味でしたら、それは大違いです。神はそんなことを一切していません。

まず、出エジプト記5:2を見ましょう。パロは次のように言っています。「主とはいったい何者か。・・・私は主を知らない。」この物語のはじめではパロは真の神に対して無関心です。彼はエジプトの神々を信じており、また自分も神だと思っています。

次に、パロの心がかたくなになった経緯を見ましょう。この表現は三つの形で出てきます。

1) 予言:
「わたしはパロの心をかたくなにする」(出エジプト記7:3)

2) パロは(自分自身で)強情になった:
「それでもパロの心はかたくなになり・・・」(7:13)
「パロの心は強情で・・・」(7:14)
「パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。」(7:22)
「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。 」(8:15)
「しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。 」(8:19)
「しかし、パロはこのときも強情になり・・・」(8:32)
「それでも、パロの心は強情で・・・」(9:7)
「パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。 」(9:34-35)

3) 主はパロの心をかたくなにされる:
「主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。 」(9:12)
「「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり・・・」(10:1)
「しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。」(10:20)
「しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。 」(10:27)
「しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。」(11:10)

5章ではパロが主のことを知らないということが分かります。完全に無関心です。よく教えられることに反して、出エジプト記5章~12章は神のさばきについて語っているのではなく神の哀れみについて語っています。

昨日教会で副牧師がこの箇所の十の災いはエジプトの神々が本物ではないということを証明するためのものだったと教えてくれました。エジプトではナイル川、蛙、パロ自身などが神だと信じられていました。この十の災いによってこれらの神々が本物ではないということが証明されました。

それぞれの災いはパロに悔い改めるチャンスを与えるために送られたのです。神はパロが悔い改めることを望んでいたということは出エジプト記7:23から分かります。「パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった。」神が望んでいたことはパロが神に心を留めることでした。しかし、パロの心はかたくなになりました。

パロはこれらの災いを受けて2通りの反応ができました。一つは彼が実際に選んだ心をかたくなにすることです。もう一つは悔い改めて神を信じることです。実は出エジプト9:27でパロは何のことが求められているか知っていたということが分かります。「そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。『今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。』」 しかし、パロはただ一時的な救済を求めていただけです。34節ですでにまた強情になっていました。

神が「わたしはパロの心をかたくなにする」と言った時、それは災いを送るという意味でした。それらの災いが反省をもたらすか反抗をもたらすかはパロの自由意志次第でした。結局反抗をもたらしました。これは神がパロの心をかたくなにした方法です。

神の最終目的はイスラエル人の開放でした。それはパロの自由意志に関係なく達成されました。パロが悔い改めたらイスラエルを行かせたでしょう。しかし、パロは悔い改めなかったので神は違う方法でイスラエルの民を救いました。

この解釈は出エジプト記33:19(ローマ9:15-18)に新たな光を当てます。「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 これは「私が選ぶ者は救われる、それ以外の者は滅びられるけど何か文句でもあるのか」という意味ではなく、「私は嫌悪されて当然の者もあわれむ。私の恵とあわれみは無限であるからだ。」という意味になります。(出エジプト9:15-16で神はパロに対して次のように言っています。「わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく(死から免れさせる)。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」これはさばきではなく恵です。)

少年が柔術を使って犬に襲われた女の子を救う

カテゴリー: 格闘技

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柔術を習い始めて2ヶ月。カリフォルニア州に住んでいるマット・ベーカー(9歳)は先日近所の女の子(12歳)と歩いていたら突然ピット・ブル・テリアが女の子のダックスフントを襲った。女の子がやめさせようとしたらその犬が彼女を襲った。「蹴ったら今度僕の足に噛み付くだろう」と思い、マットは後ろから犬に柔術の練習で習ったチョークホールドをかけた。「(その犬が)最初ロデオの雄牛みたいに暴れていたけどしばらくすると犬が気を失った。」

助けが来るまでマットは犬を20分も抑えた。

女の子は現在犬咬傷から回復しつつある。彼女の家族は彼女の命を救ったマットに感謝の手紙とバルーンを送った。ダックスフントも無事である。

Youngster rescues girl from dog

日が短くなっている!?!

カテゴリー: 政治

American Thinker のブログにとても面白い風刺的な記事がありましたので翻訳してみました。

私は新しい危機の存在に気づきました。私はこれを「昼間短縮危機」と呼んでいます。この重大な問題に気づいたのは私だけでしょうか。最初に気づいたのは今年の6月頃だったと思います。そして意識し始めてコンピュータモデルも作り、データを解析したところ、私の直感が正しかったです!驚くべきの速さで日が短くなってきています。毎日2分ずつ短くなっており、コンピュータモデルの計算では、来年の7月までに日光が完全になくなります。
この現象は北半球全体で起こっています。この重大な問題を一刻も早く対応すべきだと思い、アル・ゴアなどの偉大な科学者に報告しています。

皆さんがご存知のように冬は日が短くなります。でも夏になるとちゃんと元の長さに戻ります。悲しいことに、同じような勘違いが実際に存在します。地球の気候が循環的であることを認めていない方々が上記のような間違いをして地球温暖化の「危機」に警鐘を鳴らしているのです。

イエスは涙を流された。

ヨハネ11:1-44で有名な話があります。

・・・イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは・・・「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。 ・・・ そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

・・・マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。・・・マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに・・・。イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

・・・マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」 イエスは涙を流された

そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」

・・・そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

イエスは涙を流された。私は長い間これを不思議に思っていました。この話のはじめにイエスが次のように言っています。 「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。」それならどうしてイエスが涙を流したのでしょうか。 私は聖書を読めば読むほど神の深い愛をこのような箇所から感じます。

この聖句についての学者の見解は分かりませんがイエスが涙を流した理由はこの世に死が存在するということ自体で悲しんでいたからだと思います。ラザロをよみがえらせたのですがラザロも周りの人たちも皆いずれは死ぬということに変わりはありませんでした。死と苦しみが世に入ることが神が望んでいたことではありません。アダムとエバの罪によって彼らが神から離れられ、彼らとその子孫に死がもたらされました。

しかしアダムとエバが神の計画を阻んだわけではありません。神はアダムとエバを創造する前から彼らが罪を犯すことを知っていました。そしてその前に人間を救うための計画を立てていました。それはその一人子を世に送り人間の代わりに罪の罰を自分の身で受けることでした。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。(ローマ5:18)

予定説 vs. 自由意志説

私たちは自分の意志で神を受け入れるのでしょうか。それとも神が人にそれを運命づけるのでしょうか。TektonicsでJ.P.ホルディングが指摘しているとおり、結局二分法です。それは、「神があらかじめ定めているから予知できるのかそれとも神が予知できるからあらかじめ定めているのか」ということです。私は後者の方だと考えています。漠然とした意味で私は「神の選民」という概念を信じています。はるか前から神は人間が罪を犯すことを知っており、それによって人間は神から離れなければならないということも知っていました。それを知っていましたので神は全宇宙と人間を創造しないことを選択することができました。ですから、創造することを選択することによって、神はある人間が救われ、ある人間が滅びられるということを決断されました。

しかし、厳密な意味で神の選択が私たちの選択をなくすとは思いません。まず、神は未来に何が起こるかすでに知っているということを念頭に置いておく必要があります。神が全宇宙を無から創造した際に、神が空間、物質と時間を創造しました。ということは神は時間によって制限されていません。しかし、神は私たちの目から見ると時間の中で働くことはあります。私たちには神の考えを理解することは無理です。しかし、神は私たちの考えを理解しており、聖書は私たちが理解できるレベルで書かれています。神が考えを変えたというようなことが書いてある聖句は私たちの視点から書かれています。その点についてはカルヴァン主義を信じている方々に同意できます。

しかし、神の全能性も考慮に入れなければなりません。以下の箇所を見ましょう。

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。  (2サムエル 24:1)

ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。 (1歴代誌 21:1)

イスラエルの人口を数えさせたのは神だったのか。それともサタンだったのでしょうか。答えは簡単です。両方です。神は悪に誘惑されることのない方です(ヤコブ1:13)。しかし、悪に誘惑されることを許すことができます。最終的にはそれはすべて神が原因です。なぜなら、神は全能であり、しようと思えば干渉することができるからです。上記の箇所について多くの解説者は聖書を書いた人たちが主要因と副因を区別しないときがあると指摘します。

この二つのことを考えると、ある結論が出てくると私は思います。それは、神は誰が神を選ぶかを永遠前から知っており、そして自分を選ぶ(主要因)人々を神が選ぶ(副因)ということです。それは次の箇所が教えていることだと思います。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。 (ローマ8:29)

予定説と自由意志は矛盾しないと私は思います。完全に理解できていませんが、神が時間によって制限されていないということが問題を解決していると思います。

予定説が私たちには自由意志がないということを意味していれば、聖書を読んだり伝道したりすることは必要ないはずです。あらかじめ救われると定められている人たちは人間の助けがあるかないかにかかわらずいずれにせよ救いに出会うでしょう。自由意志で教会に行ったり慈善を行ったりする意味がありません。なぜならそれがあらかじめ定められているものでしたら私たちは結局それをするでしょう。カルヴァン主義は私たちの努力を意味のないものにします。

バダ・ハリK-1 WORLD GP 2008 FINALで失格

カテゴリー: 格闘技

このブログでは普段あまり格闘技の話はしませんが、今夜K-1を見て決勝についての感想を書きたくなりました。バダ・ハリが一試合目でピーター・アーツを倒してから、今夜のテーマが「世代交代」になりました。アーツに勝ってから、リング上でハリがアーツの前で謙遜の行為として土下座しました。ハリが大人になったなと僕は思いました。

しかし、ハリはアーツの代役を果たせません。K-1を先導する選手でもありません。決勝戦でレフリーがその間に立ってストップをかけてからレミー・ボンヤスキーの頭を踏みつけたことでハリはそれを実証してくれました。ボンヤスキーが倒れた後の二つのパンチが勢いもあるしパンチ自体は反則行為ではありませんので許せるものですが、頭を踏みつけることは許せません。K-1はけんかではなく、スポーツです。まさと選手がコメントしたとおり、ハリに罰を与えるべきです。一年間出場停止にするべきだと思います。そのような態度はK-1の不名誉となるだけです。ハリが成長したと思ったらやはり違っていました。