どうして人工妊娠中絶が集団虐殺なのか


グレッグ・カニングハム 著


「反中絶」暴力―弁護できない、しかし誇張されている

四半世紀以上のプロ―ライフ活動の中で、7人の人工妊娠中絶供給者が実際に命を失いました。アルコール、タバコ、消防局によると、1982年から人工妊娠 中絶クリニックで49の爆撃と150の放火が起こりました(これらの財産に対する犯罪の全ては反中絶の考えによって動機を与えられた人が犯したという想定 は疑わしいものです)。よこしまな殺人はそれぞれが戦術的に愚かで道徳的に弁護できないものです。そして、それぞれが狂った個人による単独行動の犯行で す。アメリカの最高法務官であった中絶賛成のジャネット・リーノは裁判省の広大な資力を使って中絶クリニックとその医者に対する申し立てられた全国規模の 暴力の陰謀を調査するため、バージニア州アレクサンドリアで連邦政府の大陪審を作りました。しかし、1996年3月10日付のKansas City Starによると、そのような陰謀は全く発見されなかったとのことです。そして、アメリカにある主要な全てのプロ―ライフ組織はこの暴力を明確に非難して います。

プロ―ライフ「暴力」を言い張る中絶賛成者は誇張します。例えば、不正に「デモ参加」に「小規模暴力」という表題をつけたりします(www.villagevoice.comの「State of Siege: Antiabortion Violence, 1993-1998(包囲状態―1993年〜1998年の反中絶暴力)」を参照)。これは同級生の男の子に多くの女の子が性的いやがらせをされているとい う左派のアメリカ女性大学生協会(AAUW)のとんでもない主張についての最近の情報を思い出させます。実際に内容を読んだ人はAAUWの性的いやがらせ に対する定義を読むことができます。それは「不安にさせるような目で見られた」ということを含みました。左派はよく不必要な助けを求めるのでそんなものな のですが。

そして、左派自体が十分な暴力を振るいます。私たちのいくつかの教育的活動は中絶された胎芽と胎児の巨大な写真を公的に展示することを必要とします。私た ちの困難な経験から、私たちはこの画像を展示するとき、中絶賛成者から暴力あるいは暴力するという強迫が予期されることを学びました。ある通行人は車で私 たちのプロ―ライフ展示に突撃してきて、スタッフの一人が危うくひかれそうになるような被害にあったこともあります。ある中絶賛成のコラムニストは自分の 記事の中ではっきりと人々に、私たちの他の展示でも同じ事をするように奨励しました。私たちのスタッフは殴られたことがあります。また、私たちに、ものが 投げられたこともあります。最近、あるスタッフは顔に直接熱いコーヒーをかけられました。私たちの看板がナイフで切られ、警察が攻撃者からそのナイフを奪 い取らなければなりませんでした。私たちの看板が繰り返し倒されたり、殴られたり、蹴られたり、いろいろなものを投げられたりして攻撃されることがありま す。私たちは何度も中絶賛成者に殺すという強迫を受け、しかもそれはよく公で叫ばれたりインターネットで公示されます。私たちは武装された警察と群集抑制 用のバリケードの保護なしで写真を展示することはめったにできません。

しかし、反中絶暴力の実際の経歴をクラーク・ドゥーガンの本、「A Divided Nation, Boston Publishing 1984(分割された国)」で論じた社会改革の歴史と比べてみると、ほかの見方が生み出されます。ドゥーガンによると、アメリカの財務省は1967年 〜1970年の間に国中に5000の爆撃が起こったと推定しています。(1970年10月11日のNew York Timesによると、 「・・・他には装置が発見されて取り上げられたあるいはその装置の機能が停止したため、1174の未遂の爆撃が先んじられた」)。そのほとんどは反ベトナ ム戦争の抗議に関係したものです。たとえば、「地下の天気」 (「革命の青年ムーブメント」 の一派) と民主的社会支持学生(SDS)は裁判官の家を破 壊させたて、ニューヨーク警察局に損害を与え、アメリカの上院とペンタゴンのビルにある化粧室の爆撃で国を恐れさせました。ウィスコンシン大学で起こった 爆撃は600万ドルの損害を与え、関係のない大学院生の命を奪いました。

1968年の民主党の全国大会では反戦争の抗議をする5000人が1万2000人の警察、6000人の州兵、7500人の陸軍の兵士とぶつかりました。普及した石投げの対応として、官憲は催涙ガスを使って、凶暴な鞭打ちを与えました。

1969年に30万人の反戦争デモ参加者はワシントンDCで行進しました。その中の500人は暴動で、警察と政治のビルを攻撃しました。約100人の人が逮捕され、同じくらいの人数が入院しました。

1970年に、ミシシッピ州にあるジャクソン州立大学でカンボジアへの侵攻に抗議するため、国民不服従が行われました。警察、州警察の警官、それから州兵 との戦いが結果として続いて起こり、400の射撃が寮に向かって打たれ一人の大学生と関係のない青年が殺されました。他に12人の大学生が負傷しました。

そして同じ1970年に、反ベトナム戦争のデモでオハイオ州兵が13人のケント州立大学生を射撃しました。その中の4人が死亡して、その中の2人はデモと関係がなかった人です。反戦争の暴動はバークレー大学、コロンビア大学、などの無数のところで起きました。

人種の面では、1965年に6日間にわたって、ロサンゼルスのワッツ部で起こった暴動の結果、34人が亡くなり、1000人以上が負傷しました。4000人以上が逮捕され、数百のビルが破壊されました。

1966年にシカゴ市での暴動の結果、2人が亡くなり、65人が負傷しました。1967年にニューヨーク市での暴動では、23人が亡くなり、725人が負 傷しました。ほとんど同時に、デトロイト市での暴動では、43人が亡くなり、324人が負傷しました。連邦政府の軍が呼ばれ、7000人が逮捕されまし た。1300のビルが破壊され、2700のビジネスが略奪されました。そして、1968年にシカゴで起こった暴動では9人が亡くなりました。

Black Resistance/White Law: A History of Constitutional Racism in America, The Penguin Press 1994(黒人の抵抗・白人の法律―アメリカの憲法的な人種差別についての歴史)」 という本でメアリー・フランセス・ベリーは「1967年10月から 1969年12月の間にブラックパンサーが12回以上警察と鉄砲で戦い少なくとも2人の警官と10人のパンサーがその2年間に亡くなりました。」 と報告 しています。

1992年に、あるシミバリーの陪審がロドニー・キングという黒人の運転者に非常に極端な力を使った4人のロサンゼルス警察の無罪を宣告しました。暴動が 起こり、その結果38人が亡くなり、125人が負傷しました。その暴力の更なる結果として、3600人が逮捕されました。ついに、4000人の州兵が既に いた4000人の陸軍と海兵隊の兵士と軍務するために動員されました。同時に、関連した暴動がサンフランシスコで爆発し、1400人が逮捕されました。ラ スベガスでも州兵が動員されました。ニューヨーク市では暴動のため80人が逮捕され、アトランタ市でも暴力をおさめるために州兵が動員されました。

これらは1960年代に起こった社会改革運動のための暴力の小さい規模です。実は、1970年10月6日のNew York Timesが こう断言しました。「この混乱のほとんどが全国の新聞とテレビに報告されなかったほど、アメリカの国民は民間混乱に慣れているのです。」 公民権と反ベト ナム戦争運動を特徴付けた極端な暴力という点から見ると、人工妊娠中絶論争では「プロ―ライフ」 の方からは暴力がこれだけ少ないということは幸運で驚異 です。1973年からの短い間に4000万人の未生の赤ん坊を殺した中絶賛成者に対して、同じことが言えません。


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