予定説 vs. 自由意志説

私たちは自分の意志で神を受け入れるのでしょうか。それとも神が人にそれを運命づけるのでしょうか。TektonicsでJ.P.ホルディングが指摘しているとおり、結局二分法です。それは、「神があらかじめ定めているから予知できるのかそれとも神が予知できるからあらかじめ定めているのか」ということです。私は後者の方だと考えています。漠然とした意味で私は「神の選民」という概念を信じています。はるか前から神は人間が罪を犯すことを知っており、それによって人間は神から離れなければならないということも知っていました。それを知っていましたので神は全宇宙と人間を創造しないことを選択することができました。ですから、創造することを選択することによって、神はある人間が救われ、ある人間が滅びられるということを決断されました。

しかし、厳密な意味で神の選択が私たちの選択をなくすとは思いません。まず、神は未来に何が起こるかすでに知っているということを念頭に置いておく必要があります。神が全宇宙を無から創造した際に、神が空間、物質と時間を創造しました。ということは神は時間によって制限されていません。しかし、神は私たちの目から見ると時間の中で働くことはあります。私たちには神の考えを理解することは無理です。しかし、神は私たちの考えを理解しており、聖書は私たちが理解できるレベルで書かれています。神が考えを変えたというようなことが書いてある聖句は私たちの視点から書かれています。その点についてはカルヴァン主義を信じている方々に同意できます。

しかし、神の全能性も考慮に入れなければなりません。以下の箇所を見ましょう。

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。  (2サムエル 24:1)

ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。 (1歴代誌 21:1)

イスラエルの人口を数えさせたのは神だったのか。それともサタンだったのでしょうか。答えは簡単です。両方です。神は悪に誘惑されることのない方です(ヤコブ1:13)。しかし、悪に誘惑されることを許すことができます。最終的にはそれはすべて神が原因です。なぜなら、神は全能であり、しようと思えば干渉することができるからです。上記の箇所について多くの解説者は聖書を書いた人たちが主要因と副因を区別しないときがあると指摘します。

この二つのことを考えると、ある結論が出てくると私は思います。それは、神は誰が神を選ぶかを永遠前から知っており、そして自分を選ぶ(主要因)人々を神が選ぶ(副因)ということです。それは次の箇所が教えていることだと思います。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。 (ローマ8:29)

予定説と自由意志は矛盾しないと私は思います。完全に理解できていませんが、神が時間によって制限されていないということが問題を解決していると思います。

予定説が私たちには自由意志がないということを意味していれば、聖書を読んだり伝道したりすることは必要ないはずです。あらかじめ救われると定められている人たちは人間の助けがあるかないかにかかわらずいずれにせよ救いに出会うでしょう。自由意志で教会に行ったり慈善を行ったりする意味がありません。なぜならそれがあらかじめ定められているものでしたら私たちは結局それをするでしょう。カルヴァン主義は私たちの努力を意味のないものにします。

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