エホバの証人がクリスチャンの活動を?
昨日エホバの証人(ものみの塔)の二人がやって来ました。ドアを開けたらその二人が「私たちはこの近くでクリスチャンの活動をしています。」と自己紹介をしました。私はうちで仕事をしており、ちょうど納期が迫っていましたので帰ってもらいましたがもう少し時間がありましたら「エホバの証人なのにクリスチャンだと言わないでください」と言いたかったのです。
私は自分が日本人だと言っても国籍がアメリカだから日本人ではありません。エホバの証人は自分たちがクリスチャンだと主張してもクリスチャンだということになりません。
すべてのクリスチャンが3つのことを信じています。この3つのことを信じていなければその人はクリスチャンではありません。プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、ギリシャ正教会にしろ、すべてのクリスチャンは次のことを信じています。
- 神は一人である。
- イエスは創造主なる神である。(三位一体)
- 子なるイエスは十字架で私たちの代わりに死んでくださり、三日目によみがえった。
「主だけが神であって、ほかには神はない」(申命記 4:35)
「トマス[イエスの弟子の一人]は答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」(ヨハネ 20:28)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネ 3:16)
エホバの証人は2を信じていないため、クリスチャンではありません。ちなみに、モルモンは1を信じていないのでモルモンもクリスチャンではありません。(モルモンはこの世を創ったのは一人の神だと信じていますが他にも神々がおり、私たちもいつか神になると信じています。)





イエスの弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになったのは使徒たちが宣教活動していた頃であることが聖書の記述から分かります。この当時はまだ三位一体の教理はなく、弟子たちが信じていたものでもありません。この教理は幾世紀も後になって非クリスチャンであるコンスタンティヌス皇帝によって制定されたものです。
エホバの証人は自分たちこそ本当のクリスチャンだと思っていますが、キリスト教世界の自称クリスチャンに対して「自分たちをクリスチャンと呼ばないで下さい」とは言いません。それは彼らの自由に属することだからです。
誰でも「私はクリスチャンです」と言うのは自由なのです。しかし「私はクリスチャンですと言わないで下さい」と要求する権利は誰にも有りません。
岡目さん
コメントありがとうございます。確かに聖書には「三位一体」という言葉自体はありませんが、その教えはあります。イエスの弟子たちはイエスが神であると信じていました。それも上記の引用した箇所から分かります。
アリウスは4世紀にイエスが神ではないと反論して論争を巻き起こしました。反論が出たということはすでにイエスが神であるという信念が主流だったということです。クリスチャンは最初からイエスが神であると信じていましたが、325年にニカイア公会議でそれが教義となりました。そして381年に第1コンスタンティノポリス公会議で聖霊が神ではないという異端の主張を取り上げました。これも同じく、反論が出たということはすでにその信念があったということです。
新約聖書自体が正典化されたのも4世紀であり、そしてそれはアタナシオスなど、イエスの神性と三位一体の教義を主張していた人たちによってです。
エホバの証人はキリスト教の基本的な教えを信じていないため、クリスチャンではありません。自由な社会では何を言っても自由ですが、エホバの証人が自分たちのことをクリスチャンだと主張してもクリスチャンではないという事実に変わりはありません。エホバの証人が「私たちはクリスチャンの活動をしています」と言うのは不正直としか言いようがありません。
「私はクリスチャンです」と述べても、それによってクリスチャンになれるのでないことはCaseyさんの言われる通りです。Caseyさんは自分がクリスチャンであり、エホバの証人は本当のクリスチャンではないと信じておられ、それなりの理由も持っておられます。しかし、同様にエホバの証人の人々も、自分たちが真のクリスチャンであり、キリスト教世界の人たちが本当のクリスチャンではないと信じていて、それなりの理由も持っておられます。
この点において、両者は同じ立場にあると言えないでしょうか。どちらも自分たちが正しくて、相手が間違っていると主張するわけです。ただ違いは、Caseyさんはエホバの証人が「自分はクリスチャンであると言うのは不正直だ」と非難されているのに対して、エホバの証人はそのような非難をしていないと言うことです。
私がエホバの証人がクリスチャンではないと言っているのはエホバの証人が聖書の教えを信じていないからです。私がものみの塔の教えを信じていないのに自分がエホバの証人だと言ったらそれは正しいでしょうか。
エホバの証人はクリスチャンと変わらなければどうしてクリスチャンを改宗させようとするのでしょうか。自分たちもやはりクリスチャンと違うということがわかっているからでしょう。
ものみの塔は1870年代に創立された異端です。正統キリスト教は病院の建設や慈善活動で知られています。一方エホバの証人は輸血拒否事件で知られています。「クリスチャン」という言葉を聞き、まず人々は正統キリスト教を思い浮かぶでしょう。エホバの証人は自分たちがクリスチャンだというのは悪いイメージを避けて会員を増やせようとしているとしか考えられません。それは不正直です。正統キリスト教ではないと説明しなければ嘘です。
正統キリスト教のルーツはキリストまでさかのぼります。ものみの塔のルーツは1870年代までさかのぼります。正統キリスト教ではないのにクリスチャンだと主張するのは不正確で不正直です。
Caseyさんの主張は「クリスチャンと言う言葉は真のクリスチャンだけが用いることができ、そうでない人たちが用いるのは間違いである」と言うものでしょう。この点では私も同感です。しかし間違っているからと言っても、それを非難したり止めさせたりすることはできないでしょう。
「エホバの証人」と言う言葉もイザヤ43:10に基づく聖書的な呼称であり、ものみの塔協会の専売特許のようなものではありません。したがってものみの塔協会と関わりを持たない人が「自分はエホバの証人である」と述べても「不正直だ」と言って非難したりはしません。それはその人の自由なのです。
クリスチャンと言う呼称も聖書的なものであり、Caseyさんの言う正統キリスト教の専売特許ではないのです。聖書は神から与えられた書物であり、それを読んで、何を信じ何を主張するかはその人の自由なのです。もちろんその人は神に対して言い開きが求められますが、自分がクリスチャンであると信じている人が「クリスチャンです」と述べることは自由であり、不正直ではありません。
一般の人は「クリスチャン」という言葉を聞いたら正統キリスト教が頭に思い浮かぶということに同意しますか。もしそうならば正統キリスト教ではないのにそれを説明しなければ不正直だということになります。
岡目さんは人が間違っていてもその間違いを指摘してはいけないという立場ですね。
Caseyさんは「正統キリスト教ではないのにそれを説明しなければ不正直だ」と言われますが、彼らが「クリスチャンです」と述べたとき、どうして彼らがエホバの証人であることを知ったのですか?おそらく彼らを見た瞬間に「エホバの証人である」と分かったのでしょう。そうであればやはり不正直とは言えないでしょう。もし彼らが「自分たちは正統的キリスト教会の者です」と述べたのであれば、それは不正直と言えるでしょう。
「一般の人は「クリスチャン」という言葉を聞いたら正統キリスト教が頭に思い浮かぶ」と言われますが、Caseyさんは、その瞬間に彼らがエホバの証人であることを認識されたのです。一般の多くの人の場合も同じです。聖書を手にして家々を訪問するのは、正統的キリスト教会の人ではなく、エホバの証人です。何も不正直なところはありません。
最初私はすぐ近くの教会の人たちかと思いました。しかし、ものみの塔の資料がチラッと目に入りましたのでエホバの証人だとわかりました。それはあくまでもキリスト教とものみの塔の違いが分かるからです。「クリスチャン」という言葉を聞き、私も最初は正統キリスト教会の人たちだと思いました。
一般の日本人が正統キリスト教とものみの塔の違いが分かるというのですか。私の経験では違います。今までそういう人には会ったことがありません。
ちなみに岡目さんはコメント#3などで第三者の書き方をしていますが、エホバの証人ですよね。