マタイの福音書


5:39

この聖句は自衛してはいけないという意味か。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
ある人々はこの聖句を使って、聖書が武道に参加してはいけないと書いてあることを主張します。しかし、その人たちはこの聖句を誤って解釈していると思いま す。なぜかというと、この聖句が明確に右の頬を指しています。しかし、ほとんどの人は右ききなので、相手の右の頬を打つためには、後ろから打つ、または左 手で打つのではないでしょうか。あるいはもう一つの方法があります。それは右手の甲で打つ方法です。興味深いことに、これはユダヤ人の熟語になります。こ の熟語は侮辱という意味です。ですから、この聖句の意味は攻撃に対する自衛について教えられているのではなく、侮辱に対する行動について教えられていま す。

5:43

聖書はどこで「自分の敵を憎め」と書いてあるか。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』 と言われたのを、あなたがたは聞いています。
聖書には書いてありません。これはパリサイ人が追加したものです。レビ記19:18の教えにより、敵を愛するはずです。

マタイ8:30-32; マルコ5:10-12; ルカ8:31-33

悪霊につかれた人は1人だったか(マルコ、ルカ)それとも2人だったか(マタイ)。
もし2人いたなら、1人は必ずいたのではないでしょうか。マルコとルカは2人の間でもっとも目立ったおしゃべりの方に注目しているだけです。

12:40

イエスは自分が「三日三晩、地の中にいる」と予言したのになぜ2日半しか地の中にいなかったか。
ここではユダヤ人の慣用語句の理解が必要です。ユダヤ人にとって、「一日一晩」という成句は一日の一部分でも意味しています。あるユダヤ人の本はこう言っ ています。「一日一晩は『オナ』(時間の一部分)で、オナの一部は全部のようです。イエスは金曜日と日曜日の一部しか地の中にいなかったのですが、ユダヤ 人の慣用語句ではそれは三日三晩と同じことでした。

13:31

イエスが「からし種がどんな種よりも小さい」と言ったとき間違っていたのではないか。
実は、からし種より小さい種はあります。しかし、庭樹の中でからし種は一番小さい種でしかも一番大きい木になります。イエスは庭樹について話していました。イエスの時代、からし種は小さいものの標準の例として使われました。

20:29-34

マタイ、マルコ、ルカの福音書では違うことが書いてあるか。
この三つの共観福音書がみなこの奇跡について記録されています。しかし、それぞれの話が違うように見えます。マルコとルカには、盲目の男は一人ですが、マ タイでは2人出てきます。ルカによると、この奇跡はイエスがエリコに入ろうとした時に起こりましたが、マタイとマルコによると、イエスがエリコを出ようと した時に起こりました。

この三つの話は矛盾ではありません。違う詳細を伝えているだけです。二人の人がどこかにいれば必ず一人がいます。マルコとルカには『一人しか』と書いてあ りません。ただ、マルコとルカは二人の中の代表者しか述べていません。エリコについては興味深いことがあります。イエスの時代に、エリコという町は二つあ りました。それに、この二つの町は約一キロしか離れてなかったのです。ですから、この聖句の奇跡が起こったのは、イエスが一つのエリコに入ろうとして一つ のエリコを出ようとした時でした。

27:5

ユダは何で死んだか。
マタイによると、イエスを裏切った後、ユダは自分の首をつりました。しかし、ルカが書いた使徒の働き1:18-19によると、高いところから「まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂けました。」ユダは、おそらく首をつってその紐が切れて、彼の体が落ちたと思えます。

マタイ27:46、50; ルカ23:46; ヨハネ19:30

イエスの処刑に関する箇所は矛盾しているか。
間違いや矛盾という断言をする前に、作者の観点を考えなければなりません。ヨハネは十字架の下にいたので(ヨハネ19:25)、マタイあるいはマタイやル カにインタビューされた人々が聞こえなかったことを聞いたでしょう。そして、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の補足としてヨハネはわざと違うことを書 いたのではないでしょうか。

次にあげるのは三つの福音書を使った復元です。マタイは赤、ルカは青、そしてヨハネは緑です。マタイ・ルカの共通緑は紫でマタイ・ヨハネの共通緑は黒です(マルコはマタイとほぼ同じ)。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわ たしをお見捨てになったのですか。」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでい る。」と言った。この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、 聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

ですからヨハネはイエスが大声で言わなかったことを注目しているということを認めれば問題はありません。