ヤコブの手紙


2:14-26

ヤコブはパウロと矛盾しているか。
gotquestions.orgで良い説明がありますので引用します。
パウロは独断的に、私たちは信仰によってのみ義と認められるのだと言っていますが(エペソ人への手紙2:8-9)、ヤコブは、私たちは信仰と行いによって義と認められると言っているかのように思えます。この問題は、ヤコブが本当は何を意味しているのかを分析する事によって解く事ができます。ヤコブはここで、信仰を持っていると言っておきながら、その信仰が行いに現れていない人たちを批判しているのです(ヤコブの手紙2:17-18)。ヤコブは、キリストへの純粋な信仰を持てば、必ずその人の人生は変えられ、良い行いをするようになるというポイントを強調しています(ヤコブの手紙2:20-26)。ですからヤコブが言っているのは、私たちは信仰と行いによって義とされるということではなく、むしろ本当に信仰によって義とされた人は、人生において良い行いをすると言っているのです。もし誰かがキリストを信じると言っておきながら、なんの良い行いもしなかったら、たぶんその人はキリストを純粋に信じていないと言えるでしょう(ヤコブの手紙2:14、17、20、26)。

パウロも同じ事を言っています。ガラテア人への手紙5:22-23は、信徒が実らせるべき聖霊の実をあげています。またパウロは、私たちは行いによってではなく、信仰によって救われた(エペソ人への手紙2:8-9)と言った直後に、私たちは良い行いをするために造られたと言っています(エペソ人への手紙2:10)。パウロもヤコブと同じように、信仰によって人生が変えられることを信じていました。「だれでもキリストのうちにあるのなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました!」(コリント人への手紙第二5:17)。ヤコブとパウロの救いに関する教えは、矛盾しているわけではありせん。この二人は、同じ課題について、違う観点からアプローチしたのです。パウロは単に私たちは信仰によってのみ義とされるという事を強調したのに対して、ヤコブはキリストへの信仰は、信じるものの人生に良い働きを生み出すという点を強調したのです。