救いを失うことはあるでしょうか?

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 (ローマ人への手紙5:8)

自分が本当に救われているかどうかが心配になって、とうとう胃潰瘍にまでなってしまった友人がいます。彼は救いを失うことがありうる、と教えている教会に 通っていたのです。私がこのエッセイを書いたのは、その教えを信じている人々を非難するためではなく、私の友人のようにこの問いに悩み苦しんでいる人々に 平安がもたらされる、お役に立てばと思ったからです。

この問いは長い間論じられていますが、救いを失うことがあると信じている人々は、重要なことを見落していると思います。人間はたとえどんなことをしても救 いを受けるに値しません。これは、良い行い・悔い改め・証し・“信仰に踏みとどまる”などということも含んでいます。救いは創造主であられる神からのあわ れみによるプレゼントです。私たちはそれを受けるに値しません。だからこそ,救いは“あわれみ”なのです。「・・・私たちが行った義のわざによってではな く、ご自分のあわれみのゆえに・・・」創造主は私たちを救います(テトスへの手紙 3:5)。キリスト教だけが世界の宗教で唯一救いは恵みによって与えられると教えています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と、聖書に書かれています (エペソ人への手紙 2:8-9)。

創造主は一度与えられた救いをどうしてその人から取り上げるでしょうか。人が罪を犯したからといって、創造主はその人の救いを取り上げるでしょうか。「私 たちがまだ罪人であったとき」創造主は私たちに救いを差し出して下さったのではないでしょうか。創造主は一度決めたことを変更しません。使徒ヨハネは聖書 の中で「いま私たちは神の子どもです」と、言っています (ヨハネの手紙 第一 3:1)。 父なる神様は子どもを守ります。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るよう なことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は,すべてになさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」と、 イエス様は言っています (ヨハネの福音書 10:28-29)。 イエス様も私たちを守ってくださいます。「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼ら のうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子 [ユダ]が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」と,イエス様は言っています (ヨハネの福音書 17:12)。 ヘンリー モリス博士は、こう説明しています。「赤ちゃんのようで,一度生まれたらもう一度母親のお腹の中には戻れません。ですから、一度神様の家族とし て生まれかわった人は、再び生まれない状態に戻ることはできません。」1 もし、救いが人次第ならば、それは失われるかもしれません。しかし、救いは神様によるもので、それは永遠に続くものです。

信仰に踏みとどまる

救いを失うことがあると信じる人々は、救いを維持するために、絶対に信仰に踏みとどまらなければなりません。こう考えている人々は、救いを失うことはない と信じている人々のことを、罪への免除を教えていようなものだと指摘します。しかしながら、私たちは(救いを失うことはないと信じる者)ただパウロが言っ たことに賛同しているだけです。「それではどうなのでしょう。私たちは,律法の下にではなく、恵みのしたにあるのだから罪を犯そう、ということになるので しょうか。絶対にそんなことはありません。」 (ローマ人への手紙 6:15)

聖書には、「ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。・・・こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません」と、書いてあります (ガラテヤ人への手紙 5:21)。しかしこの聖句には、注目すべき言葉「している」があります。 習慣的にこのような罪を犯している人は(一時的に道をそれた人ではなく)、イエス キリストを本当に受け入れてはいないので、神の国を相続することはあり ません。一度は救いを受けようと告白した人でも、後にキリスト教を捨てることはあります。こういう人は本当にイエス様を受け入れなかったことになります。 なぜなら、もし受け入れていたなら、キリストはその人を決して捨てはしないからです。 聖書の中には、次のような救いが失われる(本当に受け入れなかった)ことについての種まきのたとえ話があります:
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地 に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのた めに困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことば をふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるも のは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」 (マタイの福音書 13:19-23)
高校時代,学校で飲酒したことが見つかり停学になった友人がいます。彼はその後すぐに数人のクリスチャンの友だちができて、その友だちの支えで彼はお酒を 飲まなくなりました。彼はその後、生まれかわる経験についてのすばらしい証しを私たちに話してくれました。しかし、数ヵ月後、彼はもとの生活に戻ってしま いました。私たちは彼にそのわけを聞いたところ、実のところ自分はイエスを信じていなかったと言いました。彼は私たちをだますつもりなど全くなく,ただ私 たちを喜ばせたくて、救われた振りをし、その熱心ぶりは私たちを感心させるものでした。私の友人は決して悪い人ではありません。彼は心から平安を求めてい ましたが,それを見つける前にあきらめてしまったのです。友人のキリスト教に対する反応は、一時の感情的なもので、心の底からの決心ではなかったのです。 彼は問題や恐れからの開放は簡単だと思ったので,喜んでイエスの話を受け入れました。しかし、彼の心には土台となる根はなく、ただ感情的な経験でしかあり ませんでした。彼はしばらくの間,キリスト教に対して満足していましたが、残念ながら救いは感情からは生まれません。私は、聖書のたとえ話がすべてこの友 人のような人々だけを指しているとは思いません。しかし、本当に生まれかわった信者はたとえ道をそれても必ず神様のもとへ立ち返る道をみつけます。「彼ら は私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことで しょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」ヨハネの手紙 第一 2:19

実を結ばないクリスチャンは報酬を失います。使徒パウロはこのように語っています、「もしだれかの立てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分 自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」 (コリント人への手紙 第一 3:15) 実を結ばない信者はそのことで、救いを失いません。 もしあなたがキリストから離れているなら、今すぐ悔い改めてください! 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます・・・私たちは、御父 の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネの手紙 第一 1:9, 2:1) もしあなたが自分の救いについて疑いがあっても、自分の信仰告白が真実であったなら、イエス様のみ言葉を思い出してください。「わたしにあなた をお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手からあなたを奪い去ることはできません。」


Notes


1. モリス ヘンリー. The Defender's Study Bible. ヘブル人への手紙 6:6 注