安全、合法、そしてまれ


中絶が「安全、合法、そしてまれである」べきであるとクリントン大統領が言う時、大統領は孤独ではありません。中絶について議論する場合、多くの中絶主張者はこの文句を使用します。これは、選択支持(中絶賛成)および生命支持(中絶反対)の活動の間に何か共通なものがあるかのように見せることが目的です。しかし、この文句は現実に重要な疑問を投げかけています。もし中絶が単に医学的処置であるなら--単純な選択ならば、それはなぜ「まれ」でなければならないのでしょうか。

まれでなければなりません。なぜなら実際には、中絶が人命を破壊することを生命支持者および選択支持者の両方が知っているからです。妊娠中絶手続きは単に「妊娠状態を取り除く」ものではなく、人間のいのちを取り除くものです。両者はこれを知っています。違いは、このいのちに置かれた価値にあります。

私は、ある女性から、胎児が生きていることはわかっていると言う電子メールを最近受け取りました。彼女は、胎児が生きていることに同意しましたが、母親の快適さが子供のいのちより重要であると主張しています。最近、中絶支持者が胎児は生きている「ヒトである」と認めることが一般的になってきています。しかし彼らは、胎児がまだ「人」ではないと主張するようになってきました。辞書はまだこの発展を反映していません。ウェブスターの辞書は、人を「人間(ヒト)」あるいは「個人」としてなお定義しています。言い換えれば、中絶賛成者が定義したいような、ヒトと人との間には、何の違いもありません。しかし、中絶支持者は、「人」の定義にの中に、自己認識および(または)他の独断的な用語を中絶を正当化するために含んでほしいと主張しています。

このような、「人」の定義を中絶に都合の良い定義に変えたのが、最高裁判所がロー対ウェイド判決(中絶の合法化)の中で行ったことです。しかし、もし胎児の個性が確立されたら(人として認められたら)、控訴人(中絶賛成者)の件は、もちろん、崩壊します。なぜならば、胎児の生命への権利は、アメリカの憲法(第14章)で特に保証されています。この種の意味論は、過去に女性、黒人、ユダヤ人および多くの非人と宣言された人々に対して使用されました。これらの言葉によるやりとりは、権力を持つ位置にいる人々が、自分の経済的、政治的、あるいは個人の利益のために、権力の低い他の人々を重要ではないと決めるために使われています。黒人が人間以下であると決定したのは白人でした。女性の役割を決定するのは男性でした。そして今、胎児が人ではないと決定するのは大人です。

私たちは言葉の巧妙なやりとりを辞めなければなりません。子供は1日当たり4,000人の割合、年間では100万人以上が、死んでいます。ランディー・アルコーンは、「個性は何か好ましくない人物を社会から除去する際に利害関係を持った知的エリートによって、大人に対してであっても子供に対してであっても、すでに存在する彼らに授けられるものではありません」と述べました。もしそれがヒトなら(ヒトから生まれた)、あるいはそれが独自の遺伝子を持っているなら(胎児は、母体の一部ではなく、母親とは別の、個人の遺伝子を持っています)、そしてそれが生きているなら、私たちが見ているのは、生命が本質的な価値である生きているヒト(人)です。したがって胎児は人です。ちょうどあなたや私たちのように--私たちは単に発達の異なる段階にいるだけです。

もし、あなたが神を信じているなら、人命が神聖であると信じなければなりません。人間として、何か神が定めたものを、私たちが価値のないものと決定することができるでしょうか。 中絶が単にまれな社会でなく、存在しない社会をつくるために働きましょう。