モラルは立法化することができるでしょうか



中絶を支持する人々は、議論の中でしばしばモラルが立法化されてはならないと主張します。人々は、生命支持運動がそのモラルを社会に対して強要してはならないと言います。実際、アメリカの最高裁判所も、同じ見解であるように見えます。 家族計画連盟(妊娠中絶賛成の団体)対ケイシーの判決で最高裁判所はこう述べました。
妊娠中絶が個人の基本的モラルへ反していると、私たちのうちのある人々が考えたとしても、そのモラルが私たちの決定をコントロールすることはできない。私たちの義務は、すべての人の自由を定義することで、自分のモラルの規則を強いることではありません...自由の精神には、存在・意味・世界・人間の神秘に対する個人の概念を定義する権利があります。
しかし、法律はモラルになりえないでしょうか。私は法律がモラルになり得ると思います。すべての法律はモラルの規則を命じています。なぜならば、すべての法律は、ある行動は正しく、ある行動は不正であるという、宣言をしています。立法はモラルから離すことができません。法律はすべてモラルを命じます。したがって、質問は、私たちが誰のモラルを立法化するかということです。

いくつもの不法で恐ろしい活動を弁護するために、妊娠中絶を支持する最高裁判所の議論を使用することができるかもしれません。ある人は窃盗を弁護するためにその論理を使用することができるかもしれません。なぜならば、「自由の精神には、存在に対する個人の概念を定義する権利があります。」さらに、政治やビジネスにおいての人種差別のポリシーを弁護することもできるかもしれません―「....世界に対する個人の概念を定義する権利。」あるいは、殺人者を弁護するためにそれを使用することができるかもしれません―「...人間の神秘に対する個人の概念を定義する権利。」

妊娠中絶の場合には、最高裁判所が、モラル―自由主義のモラル―を立法化することを決定しました。自由主義のモラルでは、母親のプライバシーへの権利が、生まれる前の子供の基本的権利である生命の権利より重要です。モラルが立法化されています。

私を含む、大多数のアメリカ人は、保守的あるいは自由主義、どちらか一方のモラルを立法化してはならないという考えです。私たちは、すべての人の心に存在するモラルを立法化するべきです。 これらのモラルは 道徳律あるいは自然律として知られています。生命の権利が、個人の自由の一時的損失より尊重されるべきであると、私たちに訴えているのはこの法律です。 道徳律の論理は以下のとおりです:(1)罪のない人間のいのちをとることは道徳的に間違いである。(2)生まれる前の子供は 受精の瞬間から罪のない人間であるということは事実であるので、(3) 罪のない人間のいのちをとる中絶は道徳的に間違いである。.

そのように、「モラルは立法化することができますか。」という質問には、もちろん「モラルは立法化されますし、モラルそのものが律法です」と、答えられるでしょう。今、私たちが、正しいモラルのために戦うときではないでしょうか。