イエスは全能の神か

イエスが全能の神であるという教えは、聖書にないと主張するカルトがあります。たとえば、エホバの証人は自分たちで聖書を「翻訳」し(「新世界訳」という)、イエスに対して「礼拝」という言葉が使われている箇所を「敬意」に変えて、イエスが神であるとはっきり述べている箇所をそうでないように変えることまでしています。しかし、実際にはイエスの主張は弟子たちにも敵(イエスを信じない人を含めて)にも明白でした。

イエスが神であると教えている聖句

ヨハネ1:1には、次のように書いてあります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」そして、あとにイエスがそのことばだということが書かれています。ですからイエスの弟子であったヨハネがイエスは神であると信じていたことは明らかです。

ヨハネ5:18には次のことが書いてあります。「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」イエスはご自身を神と等しくしようとしていなければどうしてそう解釈したユダヤ人たちに説明しなかったのでしょうか。

ヨハネ8:58にイエスはこう言いました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」旧約聖書(出エジプト記3:14)には「私はいる」という言葉は神の名前として出てきます。

ヨハネ10:30-33ではイエスは父なる神と一つであると言っています。ユダヤ人たちはこれが神であるという主張だというように解釈しました。単なる勘違いでしょうか。ある人たちはヨハネ10:34-38に出てくるイエスの答えが自分は全能の神であると信じていなかったことを証明すると言います。死刑になる犯罪を告発されたイエスは事実を元に自分が無罪である(本当に神であるので冒とくではない)と主張する(38節でそれを主張しています)か律法に違反していないと主張する(34-36節)ことができました。イエスは両方しました。34〜36節では明らかにイエスは容疑を否認しているわけではありません。なぜなら、イエスは自分も詩篇82のような不正なさばきを行なう悪者であると言っていません。むしろ、自分のことと彼らをはっきり区別して自分が「父が、聖であることを示して世に遣わした者」であると言っています。しかし、彼らの「神」という称号は律法学者とパリサイ人が使おうとしていた「律法」を無効にしました。

ヨハネ20:28では、ユダはイエスを「私の主。私の神。」と呼んでいます。また、福音書の中でイエスが礼拝を受けている箇所がたくさんあります。イエスはユダが自分を神だと言ったことも他の人たちが自分を礼拝していたことも訂正しませんでした。

マルコ2:5とルカ7:48ではイエスは罪を赦しました。この権威は神にしかありません。マルコ2:7では律法学者が言いました。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」

神はイザヤ45:22-23では次のように告げます。「すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓う・・・」 しかし、パウロはピリピ2:10-11では次のように言っています。「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる・・・」

コロサイ2:9には次のようなことが書いてあります。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」

ヘブル13:8には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」と書いてあります。イエスは変わらないということです。マラキ3:6に比較しましょう。全能の神が言います。「主であるわたしは変わることがない。」

イザヤ43:10-11では神は次のように言います。「わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」この箇所から二つのことを学びます。まず、永遠前からいつまでも真の神は一人しかいない。そして、真の神以外は救い主はいません。しかし、テトス2:13と2ペテロ1:1はイエスが救い主だと言っています。これはどうしてでしょうか。真の神以外には救い主がいませんが、イエスは救い主です。

黙示録21:5-7には次のようなことが書いてあります。
「すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』 また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』 」
神は自分がアルファであり、オメガであると言っています。しかし、黙示録22:12-13ではイエスは自分のことに対して同じことを言っています。
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
イエスはここで神しか言えないことを言っています。

父なる神は子なる神より上位の方か?

ヨハネ14:28では、イエスは「父はわたしよりも偉大な方だ」と言いました。これはイエスがご自分を無にして人間となった地位を指しています。ピリピ2:5-8には説明があります。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」
イエスは神であると同時に、人間でした。このため同時に神に等しく、神より下の地位でもありました。

イエスは被造物なのか?

エホバの証人は、イエスが被造物だと教えています。しかし、聖書にはそのようなことは一切書かれていません。「ひとり子」という言葉はとても重要です。C.S.ルイスという有名な作家が言ったように、誰かが何かを作る時、それは自分と違うものです。しかし、もうけた子どもは父親と同じ種類のものです。神が創るものは神ではありません。しかし、神のひとり子は間違いなく神です。コロサイ1:15はイエスが被造物だと教えていません。イエスは「先に生まれた方」であり、「先に造られた方」ではありません。意味のない区別ではありません。その後の箇所を読むと、「天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られた」ということが分かります(新世界訳は「他の」を括弧にして追加していますが、原文にはそのような言葉がありません。イエスはすべてのものを造ったのです)。ですからイエスは被造物であることはありえません。「先に生まれた」という言葉はイエスの権利を指しています。ユダヤ人の文化では「優位」や「支配権」というような言葉と置き換えることができました。

ちなみに、クリスチャンはイエスが神の生物学的なひとり子だと思っていません。ひとり子というのは三位一体の中の立場であり、イエスが生物的に生まれたという意味ではありません。アラビア語では旅をする人のことを「道の子」と言います。それはその人が道から生まれたという意味ではないように、イエスは文字通り神の子孫ではなく、イエスの三位一体での父なる神との関係はひとり子のようなものだということです。

今までの聖書の翻訳は間違っていた?

エホバの証人は上記の翻訳の多くに異議を唱えています。そして、彼らの新世界訳は違う解釈をしています。たとえば、テトス2:13と2ペテロ1:1には争点となっている語句があります。パウロは「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」と言ったのでしょうか。それとも「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエス」と言ったのでしょうか。

私はギリシア語の学者ではありませんのでギリシア語の文法について何も言えません。グランビル・シャープの法則に同意する人も同意しない人もいます。しかし、それは翻訳のための法則です。私はギリシア語を母国語としている人たちの意見を聞きたかったので数人のネイティブ・スピーカーに「大いなる神」と「私たちの救い主」が両方イエスを指しているのかそれとも後者だけなのか聞きました。

彼らの答えは文法からは「大いなる神」と「私たちの救い主」両方はイエスのことを指しているとしか考えられないということでした。一人はもしパウロが一般の人たちに対して手紙を書いていてイエスが神であると言いたくなかったのであれば間違った文法を使ってしまったということになるとまで言いました。パウロは霊感を受けて手紙を書いたと私は信じていますが、パウロは人間でしたので文法間違いをしないとは限らないと思います。しかし、霊感を受けていたならこのような重大な教義について混乱を引き起こすような間違いは聖霊が許さなかったでしょう。一人のギリシア人は次の文を紹介してくれました。

i mana kai syzygos toy

この文は「彼の母であり、妻である」という意味になります。英語の「his mother and wife」は「彼の母と彼の妻」としても「彼の母であり、妻である」としても解釈できますが、ギリシア語の文法では両方は同じ人を指していることになります。また、この文はイオカステについて書かれていると言われたら納得できます。違う風に解釈するということは書いた人が文法間違いをしたということを前提にしていることになります。

新世界訳は翻訳の資格を一切持っていない人たちが翻訳したものです。主任翻訳者は大学さえ卒業していません。こんなに重要な教義に対して、訳した経験も資格もない先入観を持った人たちの「聖書」の主張を、数多くの学者とギリシア語を母国語としている人たちの主張よりも正しいと、エホバの証人はどうして言えるのでしょうか。

結論

2千年以上、クリスチャンはイエスが神であると信じてきました。その同じくらいの期間、ギリシア語を母国語としていない人たちがギリシア語の意味を論じてきました。しかし、私の質問はこれです。もしギリシャ正教会を構成する人たちがギリシア語を母国語としていて原文はそのように解釈できなければ、どうして彼らはイエスが神であるという結論に至ったのでしょうか。そして、もし原文があいまいな言葉で書かれており本当はイエスが神であるということを伝えようとしていなければ、どうして全能の神が新約聖書の著者たちに何10億の人たちを混乱させるような言葉を書かせたのでしょうか。最後に、イエスはどうして自分が神であることを主張しているように思わせるような表現を使ったのでしょうか。神の使いはそのような混乱させるような言葉を使わなかったでしょう。いや、間違いなく、イエスは全能の神です。