歴史上のイエス


歴史上のイエスとは誰でしょうか。圧倒的な証拠に反するにもかかわらず、歴史上のイエスの存在を、否定する人々がいます。まず、いま何年であるかと考えてみるのはどうでしょうか。そうすると、私たちのカレンダーがこの普通ではない個人の生涯に基づいていると言うことに気付くはずです。言い換えれば、2000年とはイエスが生まれてから2000年経ったことをさしています。イエスという名の実在した人を否定するのは実にナンセンスです。しかし、無知と呼ばれることを拒絶する人さえ、このイエスの存在については懐疑的だと考える人がいます。 18世紀の文明開化以来、学者は、奇跡、予言、および福音書中のキリストの普通とはかけはなれた主張の信頼性を問い続けてきました。このエッセイで歴史上のイエスおよび福音書中のイエスが全く同一人物だということを示したいと思います。

福音書の確実性を受け入れるのに、一番大きな障害となるのは、自然主義という間違った前提、つまり超自然(例:奇跡、預言、神、など)の可能性を否定するものでしょう。福音書は天使、奇跡、そして「私たちが心に抱くいろいろな出来事を制御している神、私たちが釈明する義務があり、将来の望みである天国あるいは地獄、そして人間の運命を決定するイエス」 について語っています。 世俗的社会がこれらのことを信じることは困難でしょう。しかし、自然主義の哲学は類語反復で誤りのある結論をもたらします。

福音の著者

もし、私たちが自然主義を前提に考えると、福音書はどれも西暦70年より前に書かれた、ということは考えられません。なぜなら、マタイ・マルコ・ルカの福音書はイスラエルの破滅についてのイエスの預言を記しているからです。自然主義の立場からは預言が不可能であることから、彼らは預言があった時ではなく、実際にイスラエルの破滅が起こった後に書いたことになります。しかし、マタイ・マルコ・ルカの福音書が、預言が可能か不可能かにかかわらず、70年より前に書かれたことを裏付ける証拠がいくつもあります(ヨハネの福音書は90年代に書かれました)。例をあげると、まずルカによって(あるいは「ルカの福音書」の著者によって)「ルカの福音書」と「使徒の働き」が書かれたことがわかっています。そして、「使徒の働き」は「ルカの福音書」の続きだということもわかっています。パウロは紀元68年、ネロによって死刑に処せられたこともわかっています。「使徒の働き」の最後に、パウロはまだ生きていました。ということは、「使徒の働き」は(つまり「ルカの福音書」も)69年以前に書かれなければならないことになります。歴史的に代々伝えられてきた資料によるとペテロはマルコにとってマルコの福音書の資料提供者、あるいは助言者だったと言われていますが、ペテロはパウロと同じ時期に死刑に処せられています。多くの学者の間ではマルコはルカより前に書かれたと信じられています。つまり、「マルコの福音書」は少なくとも60年代のはじめ、おそらく50年代おわりに書かれたに違いありません。そして歴史的資料は「マタイの福音書」はマルコ・ルカの福音書と同じ時期であるといっています。そして、これを疑う理由はどこにもありません。この事実はただ自然主義の仮説に合いません。

しばしば、現代の学者は福音の著者は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネではないと主張します。この仮説を唱えるにあったて、これらの学者はその仮説を証明する証拠を先に提供すべきではないでしょうか。残念ながら、外部証拠は、従来の考え(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが福音書の著書である)を強く証明しています。初期の教会が福音書のうちの2つの著書が(マルコ、ルカ)、その著書でなければ、元来のイエスの12弟子以外のあまり知られていない人に由来させるということは非常に疑わしいところです。言い換えれば、もしこの2人が本当に書いてないのならば、どうして12弟子の1人でもないこの2人が、福音書の題に名前を残すことができたのでしょう。また、そのようなことが初期の教会で許されたでしょうか。初期教会は、本の著者について疑う理由がほとんどなかったに違いありません。あるいは、もし別の著者がいたならその人の名前が福音書の題名となっていただろうと確信することができます。 1

奇跡

自然主義の領域では、奇跡の存在する余地はありません。奇跡は繰り返し観察することができないので、自然主義の定義からは説明不可能です。しかし、これは、奇跡が今までに起こったことがないということではありません。奇跡が不可能であると言うことは論点をうまく避けることだと思います。奇跡が起こったかどうか判断する一つの方法は、それを主張する人の信頼性を確立することでしょう。新約聖書の著者達の信頼性について、読者の皆様にここで長い議論をするかわりに、下記のオン・ライン記事を提供したいと思います。キース・マモ著の「 20世紀の目の手術はベッサイダの奇跡がどのように起こったか証明するか」です(現在は英語のみ)。この記事は盲目の人がイエスによって癒されたことが現実に起こったということに、非常に説得力のあるいくつかの証拠を挙げています。

イエスセミナーという団体(アメリカを中心とした、聖書の中のイエスの超人的言動を一切信じず、イエスはただの人にすぎなかったと主張する人々の集まり)は、彼らの「五つの福音書」という本の中で、イエスは、彼の死後に福音書に書かれているような、イエスが復活後多くの人々に現れて語ったといわれる言葉はイエス自身が話したものではいう結論に到っています。その理由は、「イエスの死後にイエスのものとされた言葉は歴史上の立証の論題にならない」ということからです。しかし、多くの確実な目撃者からの圧倒的証言で、歴史上の立証は前の結論の理由として引用することはできません。事実は、たとえどんなに証拠があったとしても、奇跡が起こることなどないと先に結論を下した人々にとってそれらはいくつあっても不十分でしょう。しかしながら、今日、学者を含む多くの人々は奇跡を信じています。単に、超自然的な出来事を含んでいるからという理由で、福音書が歴史上起こらなかったと決めつけることは、独断的な偏見ではないでしょうか。

イエスの主張

多くの人々は、イエスを偉大な道徳的教師として認めることはできるでしょう。しかし、イエスが神から生まれた唯一の子であると信じるには心の準備ができていないのではないでしょうか。したがって、多くの人にはイエスの神性が問題となっているのでしょう。人々は、よくイエスは神の子ではないけれど、確かに道徳の模範となる良い人だったと言います。しかし、考えてみてください。神であることを主張する人は、もしその主張が偽りであるなら、偉大な道徳的教師とはなりえません。なぜなら、その人は詐欺師、あるいは精神異常者のいずれかになるからです。しかし、イエスはそれらのどちらではありませんでした。このジレンマを回避するために、イエスを神の子と信じない人々の最善の方法は、イエスがそれらのことを語ったのではなくキリスト教の教会がそれらをその後付け加えた、と主張することです。

しかし、これは不可能な方法だと思います。なぜなら、イエスの12弟子のうちの10人はイエス自身について、そしてイエスの語った福音について布教したために殺されました。これらの弟子(臆病者だと知られている)が、喜んで偽りのために死んだとはほとんど考えられません。ニールス・ダールは、「弟子が完全に彼らの主人を誤解したか意識的にイエスのことを歪めた、と思う人は誰でも空想の世界に生きているようなものです」と、言っています。ロバート・ファンク(イエスセミナーの創立者)は「五つの福音書」の序文で「イエスの弟子がイエスの言った言葉をほとんど記憶していなかったか、あるいは不確かに記憶していたと考えるのは現実的か。」と書いています。2 この質問をした後のページにこの質問への論理的な答えはこの本に与えられていません。私はその質問に「いいえ」と答えます。この主張は極めて非現実的です。

イエスセミナーのような懐疑論者は、1世紀後半から2の世紀前半に、「ナザレの謙虚な賢人」が奇跡を行う神の子に変形されたと主張します。しかしながら、これらの福音書は、イエスが十字架に張り付けられてからおよそ10〜20年の間にイエスに関するこれらの信仰を時系的に記録しました。あまりにも不正確な記述が特に非常に多くの目撃者がまだ生存していた時に、そのまま何の反論もなしに神話や伝説として書き換えられたり、書き加えられたりするのに十分な時間でしょうか。福音の出来事がイエスの生涯と福音書の記述の間に根本的に修正され拡張されたという考えは、初期のキリスト教がその由来の歴史的事実に無関心だったと考えるしかありません。しかしそれは、記述か言説が相当に歪曲された形で示された時、これに気づかなかったか、心から受けいれられ証明されたと考えるようなものです。

J・P・モーランドは、イエスセミナーとその他の人々が多くの人に信じてもらいたいことを、このように要約しました:

それは問題の出来事から取り除かれたものに関して、誰かが当時出回っていたイエスに関する本当の情報を根本的に変形し、その内容を4倍に付け足し、ほとんど原型をとどめないものに変える、という仮定とともに、教会がその変形されたものを正当なものとして受理するために十分な集団的記憶喪失にかかっていたということを必要とします。
そのような確信は、信仰が歴史に依存しないに違いないという現代の実存主義の見解によく適合するかもしれません。しかし、それは初期のキリスト教の目的と一致していません。キリスト教は、事実を直接、正しくすることがよい教えであり、その物語の重要な部分であるという考えの、ユダヤ人の世界、あるいはその考えが継続している中東の農耕文化の中で発生しました。

グラント・ジェフリーは次の類似にたどりつきました:
ある現代の作家が、1963年11月に悲劇的に暗殺されたケネディ大統領について、大統領が奇跡を起こし、40日後に死者の中から蘇ったという、偽りの物語を1990年代に書いたと想定すると・・・作家はその計画を成功させるために、事実上不可能な2つの事を遂行しなければならないでしょう:(1)彼は、密かに、一人の読者にも知されずに、何千という本および新聞報道の全部を、同時に得て、大統領に関する作家の偽造記事を挿入しなければならない。(2)世界中の何百万もの人々に同時に、人々の中には、ケネディが生存中からその死に到るまで、実際に見てきた事実に反するにもかかわらず、その偽造の事実を受けいれるように説得しなければならない。 3
結論として、私は、福音書に記録されたイエスと歴史上のイエスが全く同一であること主張します。イエスは福音書の中で語られていることを全て実際に行ったと言うということを、歴史は証明しています。私はゲーリー・W・ジェンソンの次の引用を読者に残します:
イエスセミナーは、ユダヤ人としてのイエスの特徴をはぎ取られたユダヤ人が、イエスの御言葉を正確に記述しようということにまったく関心がなかった、教会の創立者であるイエスの信者につきます。また、イエスセミナーの示すイエスは、イエスの同時代の人々の強い反応を説明しません。イエスセミナーが事実であると判断する少数のイエスの言葉は、イエスを味気ない風変わりで力のない人にし、そのイエスが殺されるほどにその言葉に強い反発をある人々に与えたり、今までの世界を覆すような働きをしたということを主張しなければなりません。 4

イエス・キリストがどのようにしてあなた個人の救い主になることができるか知るために、 人生の5つの事実 を読んでみてください。

 


イエスSeminarについての詳細、あるいは福音書の信頼性に関しては、次の記事を参照してください(英語):
"Who Does the Jesus Seminar Really Speak For?"
"The Jesus Seminar Under Fire"
"The Gospels As Historical Sources For Jesus, The Founder of Christianity"
"The Corrected Jesus"
"The Jesus Seminar"

参照

1. France, R.T. "The Gospels As Historical Sources For Jesus, The Founder of Christianity", http://www.leaderu.com/truth/1truth21.html
2. Robert Funk, Roy Hoover, and the Jesus Seminar, The Five Gospels (New York:Macmillan, 1993, 5.
3. Jeffrey, Grant, Jesus: The Great Debate, Toronto: Frontier Research Publications, 1999, 52.
4. Moreland and Wilkins, Jesus Under Fire, Grand Rapids: Zondervan, 1995, 22.