悪の問題 



多くの無神論者の中には、もし創造主であられる神がいるなら、どうしてこの世には悪が存在するのかと、言う人たちがいます。この考えは英語で「悪の問題」と言われています。無神論者を含むほとんどの人は、悪の反対は善であるということでは一致するでしょう。もし、悪の存在が創造主を否定することになるならば、その同じ論理で善の存在は創造主を肯定することになります。憎しみが創造主の存在を否定するなら、愛は創造主の存在を肯定します。暴力が創造主の存在を否定するなら,それと同じように、哀れみ・同情が創造主の存在を証明します。復讐が創造主を否定するなら、赦しが創造主を肯定します。このように、悪と善の両方が存在するこの世で、悪の存在は、創造主の存在を否定する理由にはならないはずです。

創造主が善と悪、両方を兼ね備えているという可能性もあります。もし、創造主が悪をも備えているなら先ほどの無神論者の議論は成り立ちません。私はここで、創造主が善と悪の原因の源であると主張します。言い換えるなら、創造主は悪そのものを創造しなかったけれども、創造主は悪ができる原因のもとであるということです。これは創造主が、全知全能であるというところからきています。この世にあるもので、創造主の知らないものは存在しません。もし、存在するなら、創造主は全知全能ではないことになります。

それなら、「なぜ善の神は悪の存在を認めているのか?」と、疑問に思う人もいると思います。それでは、創造主がすぐに悪をこの世から無くした時のことを考えてみましょう。もし、創造主が突然、悪の要素があるものすべてを消し去ったとしましょう、誰がこの世に残るでしょうか。この世で一人でも悪い事を考えた事がない人がいるでしょうか。誰が創造主の十戒(※注)を完全に守っているでしょうか。聖書にでてくる、ハバククという人によると、創造主は悪を目にすることができないので、私たちが罪を犯していることさえ見られないそうです。罪とは一体なんなのでしょうか。罪とは何か地上の法律に違反することだけではありません。創造主の律法を破ることです。心の中で、誰かの事を憎んだり、恨んだり、あるいは、他人の不幸を願ったりする事も、悪からでた罪です。このため、人間は一人として罪のない人はいません。無神論者は、創造主が悪を少しずつ取り扱っているとは思えないようです。もし、創造主がこのように悪に対処しているなら、(私はそうだと思いますが)無心論者が主張するように、創造主は悪を放ってはいません。ただ創造主はそれらを時間をかけて行っているだけです。そしてついには、創造主はすべての悪を消し去ります。

創造主であられる神が初めに創造された世界には、悪の存在はなくすべては善で満ちあふれていました。創造主が創られたすべてのものは、完全でした。しかし、創造主は人に悪を選ぶ自由を与えました。もし、創造主が自由を与えていなかったなら、私たちはただ自分の義務を果たすロボットのようになってしまっていたでしょう。そして私たちには自由意志などまったくなかったでしょう。私たちが創造主を愛し従うように強制されていたなら、私たちの愛は真の愛ではないはずです。例えば、日本のテレビに電池で動く犬が紹介されました。その犬は飼い主の後をついて行くようにプログラムされています。さも、飼い主のことが好きでたまらないという感じです。絶対に飼い主に逆らわずいつも後をついて周るこの犬は餌もいらず便利です。しかし、この犬は本当の犬のように人になつきますか。飼い主は本当にこの犬が自分のことを慕っていると思えますか。もし、一方的な愛しか人が求めないなら、それは自分にだけ都合のいい虚しいものではないでしょうか。なぜなら、電池で動く犬には自由意志がないので、飼い主以外の誰にでも同じ事をするはずです。創造主はそれを知っていて、私たちに自由意志を与えたのです。そして、私たちの心からの愛を求めているのです。

この世に悪なしで善だけが存在したとしても、私たちには自由意志がなかったはずです。初めに創られた人が創造主であられる神と共に歩んでいた時、すべては善かったのです。しかし、人が創造主に従わなくなった時、人はその自由意志で従わないことに決めたのです。これが、この完全な世界に悪が入ってきた始まりです。創造主は初めの人に、すべて必要なものは与えました。創造主はこの人に、あるひとつの木からは実を取ってはいけないと、言いました。創造主は人の自由意志を試しました。この木は何千もの木の中の一本でした。なぜ人は、そのたった一本の木の実を取って食べたのでしょう。創造主は人が必要なすべてのものを与え、その一本の木だけには決してふれるなと、言ったにもかかわらず、人はそれに従いませんでした。

この世には多くの悪が散乱しています。しかし、悪は自然主義的な方法では説明できません。人間以外の生き物には、人間のように悪を所有することができません。人間以外の哺乳類は独断的には殺しません。私たち人間はこの地上で他のすべての動物と大きな違いがあります。この違いについて、聖書の説明以外には、科学的あるいは進化論的な説明はありません。

なぜ聖書のはなしを、持ち出すのかと、問う人もいるかもしれません。答えは簡単です。これがただ一つの説明だからです。主流の宗教の中で、人とこの世の初めについての教えがあるのは、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教だけです。この話は、聖書の創世記に出てくるものです。もし、創造主であられる神が存在するなら、創造主は創世記の創造主です。聖書(旧約聖書)は、世界で一番古い、宗教の経典です。そして、もし、創造主であられる神が人に語るなら、創造主は初めの時から語っていたはずです。

  悪のはびこるこの世にも希望はあります。それについて興味のある方は、「 人生の5つの事実」 を読んでみてください。

※ 注 十戒(新改訳聖書、出エジプト記20章から)