創造:弁明の備え


ケン・ハム 著


これまで何年にもわたって、数多くの人が、私に同様の質問をしてきました。それは、

「私はもうずっと友人たちに証ししようとしてきたんです。でも彼らは、『自分は聖書を信じてないし、何が書いてあるかも興味はないよ』と言うんです。彼らは、『全てを造った創造主がいるというなら、その確かな証拠をみせてごらんよ』と要求してきます。それができれば、彼らも私の主張する聖書の教えに耳を傾けてくれるんでしょうが・・・。彼らに耳を傾けさせるために、聖書に触れずにどんな証拠を示したらよいでしょうか。」といった内容です。

これに対する私の答えを短くまとめてみましょう。

証拠

創造論者も進化論者も、クリスチャンもノンクリスチャンも、みんなもっているものは同じ証拠、同じ事実です。考えてみてください。私たちはみな同じ地球に住み、同じ化石層を共有します。ですから事実はすべて同じです。

違う点は、それらに対する解釈の仕方が人によってまちまちだということです。では、なぜ解釈が違ってくるのでしょう?それは、私たちが違った前提から出発するからです。前提とは、あることが正しいという推測で、その推測が正しいかどうかは証明されないで用いられます。そして、この前提が土台となって他の結論が導かれます。すべての理由付けはこの前提、別のことばで言えば、自明の理に基づいています。これは、過去の出来事を取り扱うときに、特に大きな影響を及ぼします。

過去と現在

私たちはみな現代に生きています。実を言えば、すべてのものは現在に存在しています。人がある事実について、どうしてそうなったかを知りたいと思うなら(たとえば動物はどこからやってきたのか、化石層はどのようにして形成されたのかなど)、実際に行うことは、過去と現在を結びつけようとすることです。

しかし、私たちがその出来事を観察できる過去にいなかったならば、どうやって過去に起きたことを知り、それを現在説明できるのでしょう。もしタイムマシンがあればどんなにすばらしいことでしょう。そうすれば過去の出来事をはっきりと知ることができるからです。

ある意味でクリスチャンは、自分たちが「タイムマシン」を持っていると主張することができます。聖書と呼ばれる書物がそれで、それ自体が「創造主のことばである」と宣言しています。創造主は常に存在し、私たちが知る必要のある過去のおもな出来事を聖書の中で明らかにされました。

Cartoon: revelation, not 'the
present', is the key to the past

私たちは聖書に書かれている、創造、堕落、ノアの洪水、バベルなどの出来事に基づく前提によって、思考体系を組み立てます。そしてその思考体系によって、現在に存在する証拠を解釈することが可能となるのです。進化論者は進化論者で過去と現在についていくつかのことを信じています。たとえば創造主あるいは特殊創造を行った存在はいないという前提に立って、現在に存在する証拠を解釈する思考体系を組み立てます。

ですから、クリスチャンとノンクリスチャンがある証拠について議論するとき、実際にはそれぞれの「前提」に基づく「解釈」の議論をしているのです。実にこのために、議論がしばしば噛み合わなくなってしまいます。

「私の言ってることが理解できないんですか。」

「できません。それがどんなにおかしいかわからないんですか。」

「いや、おかしくありません。私が正しいのは明らかです。」

「いいえ、明らかじゃありません。」云々。

両者とも、同じ証拠について議論しているのですが、違ったメガネをかけて証拠を見ているのです。

Cartoon: seeing the world through
the faulty evolutionary biblical glasses
Cartoon: seeing the world through the
correct biblical glasses

本当に議論が始められるべき点は証拠ではなく前提であることに気が付いて初めて、互いの異なる考えの土台となっている証拠に取り組むことができるのです。人は別なメガネをかけ直さない限り、すなわち前提を変えない限り、証拠の別な解釈をすることはできません。

こういったことを理解したクリスチャンは、実際に進化論のメガネをかけて(ただしその前提は真実として受け止めないまま)、進化論者がどんなふうに物事を見ているかを理解できることを、私は発見しました。しかし、霊的な理由を含むさまざまな理由から、普通ノンクリスチャンはクリスチャンのメガネをかけることはできません。彼らが、論争の争点がその前提にあることに気が付いて、自分たちの前提に疑いを持ちはじめなければ、クリスチャンのメガネをかけられないのです。

もちろん、創造に関する科学的「証拠」を提示するだけで、「その事実」に関する創造論の科学的議論が筋が通ることを相手に納得させられる時もあります。しかし、その同じ証拠についてもっとよさそうに思われる別の「解釈」を聞くと、その人はたいてい、あなたからきいたことを捨ててそちらになびき、「より強力な事実」を見出したと考えるでしょう。

しかし、もしあなたが、前提の問題について相手が理解できるよう力を貸してあげていたならば、これが、異なる前提に基づく異なる解釈にすぎないこと、要は前提の問題なのだとより気付き易くなるのです。

私が教師をしていた時、次のことに気付かされました。私はいつも創造の「事実」を念頭において生徒たちに教えていましたが、後で別な教師が同じ「事実」に関する別の解釈を生徒たちに教えると、生徒は私のところにやって来て言います。「先生、私たちが納得いくよう、またお話していただかなくてはならないみたいです。」

そこで私も考えて、生徒を教えるときに、私たちが事実をどう解釈するか、それらの解釈が私たちの前提とどう関わっているかを教えるようにしたら、次に別な教師が「事実」の別の解釈を教えたとき、生徒たちはその解釈の基になっている仮定に挑戦したのです。そうすると、今度私のところにやって来たのは生徒たちではなく、その教師でした!彼女は私に対して怒っていました。それは生徒たちが彼女の考えを受け入れないばかりか、彼女の考え方の土台に異議を唱えたからです。

この事を通して、私は生徒にただ“何”を考えるかを教えるのではなく、“どのように”考えるかを教えることを学びました。このことで私のクラスは何と変わったことでしょう。教え子の何人かが、後に、時には何十年もたってから、私の教えの結果彼らがどんなに生き生きした、堅い信仰をもったクリスチャンになったかを、思いがけず語ってくれるときがありました。そのことで私は無上の喜びにあふれています。

討論の条件

ある人たちが要求するように、聖書抜きで討論することにあなたが同意したとしたら、討論の条件は彼らによって設定されたことになります。その条件とは、本質的に次のようなものです。

  1. a.「事実」は中立である。 しかし、「客観的事実」など存在せず「全ての」事実は解釈されているのです。一度議論から聖書が取り除かれてしまったなら、クリスチャンの前提は失われ、相手と異なる事実解釈を効果的に提出することができなくなります。そして、相手は自分の前提を持ったままですから優位にたちます。(下の枠内の記事をご参照下さい)

  2. b.真理は創造主から独立して決定され得るし、また決定されるべきである。 しかし、聖書は次のように述べています。「主を恐れることは、知恵の初め。」(詩篇111:10)「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)「生まれながらの人間は、神(創造主)の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14)

クリスチャンは、霊的な問題を、戦いそのものから切り離すことはできません。ノンクリスチャンは中立ではないのです。このことは聖書にはっきり述べられています。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ12:30)「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」(ヨハネ3:19)

このような討論の条件に同意することは、「歴史を理解する上で宇宙の歴史に関する聖書の記録は不適切である」とする相手の提案を、暗に受け入れたことになるのです。

最終的には、聖書のことばが誤りを悟らせる

第1ペテロ3:15や他の箇所から、人々に真理を確信させるために、私たちがあらゆる機会を用いるべきであることはあきらかです。また、第2コリント10:4-5は、誤りを論破すべきであると教えています(ちょうどパウロが異邦人伝道でしたように)。しかしながら、ヘブル4:12のみことばを決して忘れてはなりません。「神(創造主)のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

また、イザヤ55:11のみことばがあります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

たとえ私たち人間の議論に力があるとしても、人に誤りを認めさせ、真理に導くのは、最終的には創造主のみことばです。いかなる弁明をするにも、誤りを認めさせるみことばを、私たちの口から取り除くべきではありません。

実践的な適用

誰かに、聖書ではなく、「証明」や「証拠」が欲しいと言われたら、私はこう答えます。

「あなたは聖書を信じていないかもしれませんが、私は信じています。そして聖書は、この宇宙を理解するため、私の回りにある事実を正しく解釈するための適切な基盤を与えてくれると信じています。私が聖書に立って考えるときに、世界がどんな風に説明され、しかも科学的に矛盾しないということを、いくつかの例を挙げましょう。たとえば聖書には、創造主が動物や植物を種類に従って識別できるように造られたと書いてあります。この前提に基づいて考えていくとどうなるかお話しましょう。私は自然選択や遺伝的浮動などの仮定がどのように説明され解釈されうるかをご説明します。聖書に基づくなら、遺伝についての科学がいかに納得のいくものか、御理解いただけるでしょう。」

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もちろん遺伝に限らず、いろいろな科学的事例を用いて弁明することができます。例えば、罪と裁きの問題が地質学や化石の証拠にどう関わっているかを示すことができるでしょう。また、人の堕落とその結果被造物にもたらされてのろいがどのようなものかを、有害な突然変異や暴虐や死によって説明できるでしょう。

こういったことを一通り説明した後で、私はこう続けます。

「今度は、これらのことに関して、あなたがご自分の立場をどう弁護されるのか質問させてください。今私が取り上げた事柄が、あなたの信ずるとことに基づいてどのように説明できるか、あなたの考えをお聞かせください。そして、私の科学と理論のどこに間違いがあるか、示して下さい。」

このように弁明する事によって、クリスチャンは:

  1. 聖書に基づく前提を用いて、証拠を解釈する思考法を確立できる。

  2. 聖書と科学が切り離せない関係にあることを示すことができる。1

  3. 相手の前提の正当性を問うている(多くの人たちは、自分たちの前提を意識していない)。

  4. 相手が、科学にも自分の前提にも矛盾しないよう論理的に自分の立場を弁明するようにさせる(多くの人は、これができないことに気付く)。

  5. 創造主のことばを尊重しながら、魂に罪を認めさせる。

覚えておいて頂きたいことは、創造を信じるよう人々を納得させるだけで、創造主であり購い主であるイエス・キリストを信じ信頼するように導かないならば、それだけでは不十分です。創造主は、ご自身のみことばを誉とする人を誉れとします。私たちは、いのちの何たるかを明かす真理を携え、創造主に栄光を帰す方法によって人々に届いていく必要があるのです。

自然主義、ロジックそして実体

創造論に反論する人たちは、彼らの一番基本的な前提が、自然主義・唯物論と呼ばれる、神を演繹的に除外するものだとさえ気付いていないのかもしれません。2 次の2つの実際に起きた例は、その仮定に関するいくつかの問題を強調しています:

1) ある若者がセミナーで私にこう言いました。「僕はまだ『ビッグバン』という偶然のランダムな工程によって僕たちにいたったと信じています。僕は神を信じていません。」私はその若者にこう答えました。「それなら、明らかに君の脳、そして君の考えの工程はランダムに生み出されたものということになる。そうすると、君はそれが正しい方向へ進化したかどうかわからないし、正しいという言葉の意味さえわからなくなる。君は、自分が正しいことを言っているか、あるいは君が私に正しい質問をしているかどうかさえ知らないことになる。」

その若者が私に向かって突然話しだしました。「あなたが推薦した本は何でしたか。」 彼は自分の信じているものがその土台 ―そのような『思考』が思考のまさにその土台を台無しにするという矛盾に、ついに気付きました。

2) 別の時に、ある男性がセミナーの後で私のところに来てこう言いました。「実は、私は無神論者です。私は神を信じないし、絶対を信じないので、私は実体でさえ確かかどうかわからないのです。」 私はこう答えました。 「それなら、あなたは今ここで私と話していることが本当かどうかどうしてわかるのですか。」 「それは、いい要点ですね。」と彼は言いました。「何の要点ですか。」と私は聞きました。その人は私を見て笑って言いました。「私はそろそろ家に帰ったほうがよさそうです。」そこで、私は言いました。「あなたの家はないかも(存在しないかも)しれませんよ。」 彼は、「いい要点ですね。」と、言ったので、私は「何の要点ですか。」と聞き返しました。

この若者は、もちろん要点を得ました。もし、神が存在しなければ、結局のところ、人はどうやって哲学的に実体について話すことができるでしょう。あるいは、理論上どうやって真実を信じることができるでしょう。真実とはいったい何であるかと定義すること自体、困難になってしまうでしょう。



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Ken Ham is the Executive Director of Answers in Genesis